<ワンネスの考察>エックハルト読書会

先日、マイスター エックハルトの読書会

説教21「一なる神について」に参加しました。

 

「一なる神について」

このテーマは私が浄化をしている理由に直結しているので、興味を持ちました☺️

私が浄化を続ける理由は「神に還る」だからです。

 

 

「一なる神」というのは

現代スピリチュアルで簡単に言えば、ワンネスでしょうか。

ワンネスの意識はとっても面白くて、それについて考えるほど自分の分離について見えてきます😂

「生まれ落ちて今ここにいる瞬間、すでに私は固有の私であり、個別の私である。」これは絶対に避けて通れないわけです😂

 

肉体を持って今ここにいる。という致命的な事実を持つ、固有の自分を受け入れながら、自分がどのように「一なる神」を捉えているのか。

講師のお話を聞きながら、読書会で説教を読みながら、ゆっくりと再考する機会を得ました。楽しかったです☺️

 

読書会概要

エックハルトを読む会 

 

🟡現代スピリチュアルからだけではなく、中世の神学からも「神」「ワンネス」に触れてみたい。

🟡「神との合一」「一なる神」「ワンネス」ということを深く考え抜かれた、エックハルトの説教を知ってみたい。

このような人におすすめでした。

※でも、最初に説教1を受講しないと、他のお話の受講ができないそうです。最初にエックハルトの神学について基本的な理解を得てから…ということのようです。

 

最後に読書会受講後の私の考察メモをシェアします。

これだけでは意味不明だと思いますが、エックハルトと講座のエッセンスだけでも。

本当に神に還ること、つまり「神との合一」「一なる神」「ワンネス」について考えるのは楽しかったです☺️

 

=====

📝考察メモ

 <2021/12/19>

 

何をどのようにするかではなくて どう在るかが大切。

 

「在る」= 全体「一なるもの」であるということ。

ドミニコ:知の追求 

フランシスコ:知の禁止 

どちらにしても「する」

(追求する、禁止する)。 

 

エックハルト:「友よ上に登ってきなさい」 

 

上は上に行くほど 「在る」が大切。 

「在る」がしっかりしてると 「する」こと自体には、それほど重要な意味をなさない。 

「追求」も「禁止」も どちらの状態からでも「在る」であり続けることができるから。 

 

「在る」でいると、 

「ドミニコがよい」 「フランシスコがよい」 細かく見ることも出来るけど、細見、分類そこに最重要があるわけではないことも理解できる。 

 

 

重要ではないことがわかると、軽やかに扱うことができる。

とらわれない。

自由度が増す。 

その自由がまた上に上がっていくための循環に力を与える。 

とらわれることは上昇を止めて、とらわれた段階に精神を留めおくことになる。 

自由で在ることは大切。 

 

 

自由が上昇への力になるのは 「私は私である」の固有性を解くから。 

肉体を持つから大きな限定を抱えるように思うけど「私」「あなた」「彼」「エックハルト」「ドミニコ」「フランシスコ」 それも精神の上では些細であり超えていける。 

 

 

全体の中では固有性は簡単なタグみたいなもの。

とても些細なこと。 

タグの細見と分類にとらわれると、横にトンネルを掘っているだけ、垂直に上昇はできない。 

 

 

人を、外を見ている間は、常に判断している。 

判断も「する」の行為。 

固有性個別性を見ている間は、分離の線の判断のラインだけを見てる。 

判断で自分の外と中が生まれる。

 外を切り分けるごとに中と外、分類と分離がで、相手を裁くようでいて、同時に自分も切り分けられて小さくなっていく。

(ガブリエルはミカエルじゃない。) 

(私はエックハルトではない。)

(私はフランシスコではない。) 

自由は消える。 

 

 

最初に戻って 

上は上に行くほど 「在る」が大切。 

「在る」がしっかりしてると 

「する」こと自体には、それほど重要な意味をなさない。 

本質ではなくオプション。 

 

 

「在る」というのは全体である。という意識。=本質 

私はあなたではない。 

それだけではなくて 、私はミカエルだけど、サタンではない。 

私はエックハルトだけど、フランシスコではない。 

そんな適当なことも、全部できない☺️ 

 

 

私は全体である。

「在る」精神だと、肉体を持っていても 

私はあなたである。 

私はガブリエルである。 

私はサタンである。 

一部も全部も否定できない。

それらにいつも完全に支えられてることがわかる。 

 

 

上に上昇して、全体になる。 

見たければそこから差異を見ることもできる。 

でも、見ても特に差異からは何も影響されない。

同じ温度だと差がわからないみたいに。 

 

 

影響されるということは外部があると信じていなければならない。

(その時点で1ではない) 

「それが素晴らしいから、私はこうする。」 

「それが劣悪だから、私はこうする。」 

「私はあなたではない。」 

「私」というものがあり、見て判断して「する」間はずっと外部からの影響を受け続ける。 

判断の限りずっと否定が続く。 

その状態で生きる限りずっと否定が続く。 

 

 

エックハルトのいう 

「一なるもの」「神なるもの」は、一なるがが故に否定を否定する。 

「在る」に戻る。 

「一なるもの」=「在る」 

「1」=「在る」 

 

 

私は「在る」に戻る。

 

#メモ終わり

=====

 

私たちは限りない差異を持ち、一つとして同じではなく

そして決して分離して離れることができない一なるもの。

それが本当にどれだけ素晴らしいことであるのか、ゆっくりと思いを馳せると深い感動があります☺️

今日行った病院の待合室で静かな音楽を聞きながら「一なる神について」から、静かに自分の中に降りていって、その尽きせぬものを、言葉でも表し得ないものを人間というものの中に与えられたということに、心が震える思いがしました😌💓✨

お読みいただきありがとうございました☺️🌈✨

 

 

🦄 Healer北澤さんInformation🕊

 

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