こんにちは。Aikoです。

最近、好きな言葉や歌、アートを思い浮かべると、ただ光だけがあるようなぼんやりとしたものはつまんないなー。って思っていたこと再確認しました。

すごい優しげな聖母の宗教画とか、光そのものの絵とか、すごく甘い軽い音楽とか。それが感じいいのはもう知っているよ〜。でも形だけだとつまんないよね。という気持ちです。

 

 

うちは夫婦ともにアートの片隅にいますが、作家の旦那さんと文章の校正をしながら「芸術」と「藝術」では、意味違うから漢字を間違わないように使ったほうがいいね。と話していたんですけど、すごくざっくり言うと

「芸」… できたものを刈り取る

「藝」… 種を蒔く

なんです。

 

 

「藝術」に、なんのために微力ながらもエネルギー注いでるかといえば、人の心に、世界に、種を蒔くためです。

何か人の心にどんな形であれ作用したときに、そしてそれが自由に育って、運がよければ見届けられるし、そうでなければどこかで育っているでしょう…。と。

私はプロの作家ではないけれど、その気持ちで切り絵以外でもいろんなことをしています。子育ても、人付き合いも。遊ぶときも。

 

 

作品は畑じゃないから、すでに出来上がった価値、そういうのを増やして刈り取るために制作をしているわけではないのです。

だから、いくら稼ぐかの近視眼的な生産性を重視する人からは、作家はリスキーすぎて「ちゃんと作家になれるかわからないのになんで結婚したの?」「どうやって生活するの?」と、生活が安定した今でも聞かれます。「その時、それが正しいと思ったから」とお答えするしかありませんが、聞かれるのは嫌ではありません。それも含めての作家だから、生きる方法はひとつじゃないよ。と、ゆっくりお話しできるチャンスだなとありがたく思います。

 

 

プロである旦那さんは作品を作り続け、その作品の命と言葉をプレゼンテーションし続け、種を蒔き続けるしかないわけです。私の表現である切り絵も(制作できていない時間の方が長いけれど)種を蒔き続けることは、絵も、いまやっている子育ても、大切な人たちとのコミュニケーションも同じことなのです。

 

 

話はちょっと乱暴になりますが、すでに、認められて高騰している価値の上で制作して安泰・安住することは「藝術」ではないわけです。

 

 

種を蒔き世界が揺れてミックスされることが面白いから、不安定だけれどその揺らぎの中でいかに幅広く価値と多様性のの幅を枠に押し込められないで、いかに遊んでいくかが醍醐味です。それには通り一遍のマジメさは、私にはもう必要がないです。

 

 

光だけの作品も、いまの私には興味がわかなくて、すでにすごくすごく統合されて光そのもののように光しか作らない作家さんなら、それが素晴らしい全てだと思うけれど、いま私がそれをやったら、形だけの嘘になるので。

 

 

好きな歌を歌いながら、お皿洗いしてるときも、その楽しく歌っている歌詞は、全然イイ子じゃないんですよ。どっちかといえばすごく底辺の感情までも含めてそれを宇宙に返しているような歌詞の歌の方が多かったな。でもいまはそんな歌も歌うのが楽しい。女性でいえば聖母だけじゃないところにも、ぜんぶに愛があるから。生々しい愛は宇宙的なあり方じゃない、と教えてもらったけれど、いまは私は生々しい感情もあるし、そのあり方だから仕方ないです。三次元から高次まで私がアクセスできるネタがあるってことです。エゴで綺麗なところだけ摘んで不自由になるより、高次から三次元的な感情まで、知ってること全部の私を表現しようと思います。もちろん本当に光を描ける人は素晴らしいなと思うけれど、光の描き方は一つではないはずです。

 

 

三次元の心にからめても、種を蒔ける作品を作れたらいいな。と思います。

作るという感覚も変わってきて、自分を使って製作しないでいいから、もっと楽になるよ。という感覚になってきています。

 

 

今日も独り言のような文章ですが

お読みくださりありがとうございました。

 

 

愛するあなたへ

抜けるような光から、暗い襞の奥まですべてがあなたです。