父の運命は、このときを境に家族を養うことに必至だった。自分の店を持つという夢を封印し、家族のために選択したこの道は、時には父にとって険しい道だったはず。私が13歳になるまでの時間は父の夢と引き換えに私たちは暮らすことができたのです。
そして私達家族は始めて自分達だけの住いとして、寮生活が始まったのです。6畳一間に家族が移住したのが、板橋の志村でした。当時としては恵まれた環境と言っても良いでしょう。住む家さえ見つからず路頭に迷っている人がたくさんいる中、住いを与えられた私達家族にとってそれは天国でした。
そして家族も増え、私には弟が2人増え3人兄弟となりました。現在の管理本部長は一番下の弟で、生まれた当時のことを振り返ると、とてもかわいい弟でした。
公務員宿舎生活はなかなか楽しい時代でした。
寮全体が大家族のようでもあり、私の今の性格を養ってきたのはこの当時の生活から得たものでもあったと思います。たくさんの人たちと一緒に生活をすることがとても好きでそんな中からコミュニケーションを取る術を学んできたと思います。

この寮生活を通して今の自分の基礎が出来上がってきた。たくさんの方々に囲まれる楽しさ、一つのことを共有できる素晴らしさ等々、数多くの体験が出来たことは、今の子供たちと比べてとても恵まれた環境にあったと思います。

それは自然と我慢をする知恵を学び、人とのコミュニケーションの取り方を学んだ時間でもあった。精神的逞しさやポジティブシンキングが育った原点は寮生活から始まったと言っても過言ではありません。

父が厚生施設の理容部門の仕事をしていることを私達はまったく知らない世界でした。だから幼少の頃父の仕事振りを見ることが皆無でした。だから父が床屋さんをやっていたことを知ったのは小学生の高学年になって始めて職場に連れて行っていただき、始めて父が母の実家の仕事を同じことをしているのを知るきっかけになりました。

この父は昔の人で口が重く、自分から話しかける人ではありませんでした。良くぞ理容師として成り立っていたものだと思うくらいです。

 今の社会でも同じことが言えるはずです。それは父親が家族を養う為に企業戦士として活躍している姿を子供たちは見る機会がありません。私が役所に行って始めて父の仕事ぶりを見たことは今でも鮮明に記憶しています。そのくらい子供にとって父親の仕事を見せるということは、子供の教育にとって、大切な時間なのかもしれません。

夫婦はよく出来ていたもので、母はまったく反対でとても多弁で話しだすと止まらず、一人で喋りまくり一人で笑い出し周囲の人はあっけに取られていることがよくありました。

3人兄弟の中で父に似ているのが三男で、母に似ているのが私かもしれません。

この父と母の仲は、喧嘩を毎日するほど仲良い二人でした。