私は今までの人生で2回、強い承認欲求に駆られたことがあります。
1社目の会社を退職したあと、そして今です。
その間は8年近く空いていますが、定期的に訪れるものなのかと思っていました。
ですが、深く観察してみると、共通点が見えてきました。
そしてその正体と、考え方にたどり着いたのでここで記しておこうと思います。
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なぜそのような時期がくるのか私は考えました。
2つの時期の共通点は社会に価値を提供できていなかった、つまりは事実として会社で働いていなかったことです。
その事により社会との共通点が少なく、給与としてお金をもらっていなかったのでお金に対しての不安や働いていないことに対しての焦燥感、罪悪感を無意識でも強く感じていたのかと思います。
私の場合は意図的に仕事を休んでいたり、1社目の労働環境が過酷だったこともありうつ状態だったので休んでいました。
人生の休息期間とも言え時期だと思います。
その時期はもちろん仕事はないので家にいる時間が長くなります。
そうするとテレビやSNS、動画サイトを見る機会が多くなります。
そうすると、次第に他人と比べる機会が増えるのではと考えました。
根っからのポジティブや軸ができている人は陥らないとは思いますが、私のように内向的で若干の完璧主義でお人好しな人間だと、動いていないとすぐにネガティブに傾いてしまいます。
(そこが長所として働く場合も大いにあります)
ですが、私の場合は意識していたわけではないのですが、気が付けば自信がなくなり、人と比べ、自分には価値がないと自分を責めている毎日になっていた気がします。
そして、その時に突如として承認欲求が強くなったのではと思います。
人から必要とされたい、人気者でありたい、価値提供をしたい。
人間として当然の欲求であり、とても健全だと思います。
しかし、その価値観は本当に自分のものでしょうか?
一度立ち止まって、湧いてくる気持ちを観察してみては、と思いました。
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というのも、私が最初にそのような状態に陥った時の行動を振り返ると、私の行動パターンとしては異常だったのです。
その時の経験は無駄ではないと思いますが、別人になったかのような、私ではない私でした。
さらに、私が仕事もプライベートも心から安定、満足していたその時には全くと言っていいほど抱いたことのない感情の種類だったのです。
その差から私は、無価値観、承認欲求、劣等感を抱いている時の私の理想のビジョンは私にとって偽りのものではないかと思い起こしました。
では、そのような価値観、感情を抱くことになってしまったのか。
結論から申し上げますと、私が悩んでいた価値は私が決めた価値ではなく社会が決めた価値です。
私は自分の価値と勘違いして日々悩んでいたのです。
そもそも世間体とよばれるような判断基準はなんなのでしょうか。
経済の格差は確かに存在すると思います。
年収などは数値で表せるので比較しやすいですし経済学などではなくてはならない指標です。
しかし、人の価値は格差はないと思います。
命は平等でありそこに優劣はなく、天皇の家系に生まれても一般人であっても価値は変わらない。
天才でノーベル賞受賞した人、オリンピックで金メダルを取った人でも私と同じ人間です。
そこに格差はないと信じています。
それ故に、社会貢献できていないからと言って存在に価値がないわけではないのです。
まともに掃除や家事、育児ができていなくても価値のない人はいないのです。
私が見てきた人の方の中で、疲れるようなことを何もしていないはずなのに夜にはぐったりしてしまうという方がたまにいらっしゃいますが、その方は頭ではわかっていても、無意識下で自分を責めてしまい事あるごとにお金の心配や仕事の心配などをしているケースは多いです。
虚無主義、ニヒリズムという考え方があります。
とても極端な発想ですが、考え方を変える切り口の1つとしてよい考えだと思うのでご紹介します。
どのような考えかというと、簡潔に言えばこの世のすべてには意味がない、という考え方です。
生きている意味もない。働く意味もない。
人間は動物であり、生まれて死ぬ以外は意味はありません。
この考えを聞くと、では死を選んでもいいではないかと思う人もいると思います。
ですが、死ぬことにも意味がないのです。
意味がないのならば死を選択することもしないのです。
ではどうするのか。
自分で意味を決めていくしかありません。
自分にとって何が意味があるものでどういう判断基準を持つのか。
自分の憲法のようなものを作るのです。
他人や世間の物差しではない、自分だけの価値観を作るのです。
有名な著書「7つの習慣」にもありますが、自分のお葬式を思い浮かべます。
リアルに真剣に思い浮かべます。
著書ではどのような人が参列していて、亡くなった自分に対してどのような声をかけているのか。
そしてそこで読まれる弔辞の内容を想像してくださいとあります。
その内容こそがあなたのなりたい人物像であり、その内容の人物になれるように憲法を作っていくあります。
ですが、私の場合は読まれる弔辞を想像すると他人から見た自分像がメインになってしまうので、私の場合は自分のお葬式を眺めている魂の自分の気持ちを想像しています。
そこで感じたことを元に自分の価、基準、ルールを作ります。
全くの0ベースで築き上げ、自分と真剣に向き合うことができている人はおそらく道徳に反したような 考えはでてこないと思います。
ここまで原点に戻って自分と向き合う事はとても骨が折れることです。
しかし、人生のどこかでは必要な行為だと私は思っています。
この作業をすることにより自分の軸ができ、それがその先の指針となり、判断基準となり、やがては自信へとつながっていきます。
決して簡単なことではありません。
それでも頭では分かっていても、劣等感や無価値感に襲われることもあります。
それは人間は人間である以上誰でも多かれ少なかれマイナスの感情がありますし、それが人間なのです。
ただ、それに反応し流されていくだけか、気付き思考をしていくかの差はどれほどの大きな差を生むかは言うまでもありません。
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難しいことを述べてきましたが、ようは全員に価値はあります。
誰が何と言おうと平等な命です。
休みたいときは休む。
働きたくないときは働かない。
それでいいと思います。大丈夫です。
自分を否定することからは何も生まれません。
そのままで大丈夫です。
気分が進むことをすれば結果、よくなります。
動きたくなったら動く。本当にこれは大切です。
私が毎日参っていた時にハイヤーセルフや守護霊の方が言っていましたし、この考えにも賛同してくれました。
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私はスピリチュアルな世界と関わるようになる前からニヒリズムの考えは知っていました。
目に見えない存在と関わるようになってからもこの考え方は大切だと思っています。
でも1つの矛盾が生まれます。
すべてに意味がないのなら、使命や天職はないのか。
もちろん、私はあるとは思う。
ですが、一般的に認識されていることとは少し意味が違います。
生まれる前に決めてきた事や体験することは確かにあると思います。
人にはそれぞれ役割があり、それは全員がドラマティックな事とは限りません。
例を挙げると、のんびりすることやストレスと向き合い身体を気遣うことを学びたくて生まれてくる人もいます。
。。。使命や天職については長くなりそうなので機会があればまた今度書きます。
どうか、この文章が少しでも悩んでいる方のプラスになればと思います!
ありがとうございました!