今朝
見える世界と、見えない世界について
ふんわり想いを馳せていた。
風に揺れる、浄国寺の蓮の華

お盆の時期は、亡くなった近しい人たちを自然と思い出していた。
私たちは、自分に起こる身近なこと=「見えること」に意識が向くばかりで、つい「見えないこと」を忘れがち。
この世界は
見える世界、見えない世界、
そして
そのどちらでもないもの
で、成り立っているかもしれない。って考える。
朝のテレビの天気予報。
『あ。天気図を知るって
見えない世界を「みよう」とする試みとおんなじだ
と』感じた。
天気予報がない時代、嵐は予期せずにやってくる。
数時間前までは晴れていたのに
、とか

竜巻が突然
、とか

でも、衛星のように高い視点で物事が視えれば
なぜ、そのようなことが起こるか、起こったかがわかり
予期もできる。
天気予報は、見えない世界(心、内面)とおんなじだ。
状況は、原因無くして起きない。
見える世界は、見えない世界から現れる。
今の状況は、自らの心から現れてきている。
霊主体従
見えないものが先にあり、それらに従い見える世界がある。
私の幼い頃は、体主霊従的な時代で違和感があり、いつも浮いている存在に自身を感じていた。
見えるものは移り変わり、いずれは朽ちていく。そして見えない世界へ。
見えないものは、巡り巡って形を変えながら生き続け、また、見える世界へと。
心があって
現実がある。
道具があって(体)
どう使うか?のあり方・心(霊)
ノコギリや、ハサミなどの道具は
使う人の心しだいで、凶器にもなるし、優秀な道具にもなる
言葉や、態度も
どんな風に使うか?の心しだいで、これも凶器にもなるし、あたたかく包むものや後押しの力にもなる
霊主体従の世界に生きるときめたら、人生は自分次第よね



