世界を信頼することの壁
世界を信頼することの壁
わたしは自分も人も世界も厳しい
と思い込んでいた。
こわい、こわい、って怯え人生が長かった。
前の職場で数年間、社員として働いてみて
いいからやってみなよ、ってことがたくさんあった
お客様と電話やPCで様々な対応したり
何かあれば全力で誤ったりお礼をお伝えしたり
お店での色んなイベントを運営側として動いたり
お酒の販売のことでパソコン・電話・書類で保健所とやりとりをしたり
GoTotokyoのキャンペーンの内容・期限の確認
本社の管理部とのやりとり
日々のスタッフ間でのあれこれのやりとり
一つ一つが、私にとっては、怖い怖いの対象だった。
他の人が普通にできること、上手に簡単にサクッとできることも
わたしは一つ一つに緊張して、体も頭もカチカチになり、それをどうにかハートに持っていくことをやって
いいからやってみなよ、を頑張ってやってた。
わたしは自分の事を話すということに慣れていなくて、小さいころから苦手だった、友だちともそれで上手くいかなかったこともある
わたしは本気で、わたしの今の気持ちや、今の状況を話す、に何の意味があるんだろう
と思っている節が、未だにどこかにある
と感じている。
人の話は聞く事ができるけれど、もしかしたら100%本当に聞く ということは
思い返せば出来ていなかったこともたくさんあるんだろうな。
人に自分のことを話す、、
困っていること、悩み、気持ちをさらけ出す
いい事、怖いこと、悲しいこと、幸せなこと
ささいな事なんて、尚更、まったく意味がないと思ってた。
、、物心ついたときから
親の忙しさを知ってから
親に余裕がないことを察知してから
、迷惑かけたくない、嫌われたくない
が発動してから、完全に口を閉じることを
自然と決めちゃったんだ。
そうしたら、もう、話すことはムリだった。
小学生の低学年のとき、おしっこにいきたい
を言えなかったから
学校の運動場や教室で、お漏らしをしたこともあった。
理由も言えないし、言い訳も出来るわけない
はずかしくて、迷惑かけてることも申し訳なく、ただ泣いて
ごめんなさい を何とか、絞り出すだけで
もう、心が 存在がはち切れそうになった。
自分のことなど、言えるはずがない と。
わたしと言う存在(親、他人に迷惑をかける存在)は 1番底辺 と思ってたんだと思う。
今、考えればあの時
この世界に生まれてから4年か5年くらいの女の子が
なしてそんなこと考えついたんだろう
そして、なしてそんな風に自分を思う
ということを、決意できたんだろう
この純粋な決意は頑なすぎて、
今でもその壁はあるんだから。。
なんか凄いよな、なんかもう尊敬するわ。
こんな私が、とか、1番底辺人生は
魂のど真ん中からしたらどうでも良すぎて
たまに、爆発することもあるし
もう、とにかく大変だった
自分と付き合うって
究極にハードで、デンジャラスすぎた。
わたしは今は大人と呼ばれる年齢になっている。。
よく、生きてこれたよ。
今も、生きてる。
凄い事だよ。
これ、読んでるあなたも、凄いよ。
よく、生きてきたよ、頑張ったよ、凄すぎだよ。
本当に、生きてきただけで
今、生きてるってだけで、もの凄い価値しかないんだと、人生のそれぞれの背景を思うと、もうヤバいくらい凄いとしか思えない。
そう、感じる。
世界を信頼するって壁というか
もう、立ちはだかりすぎて
上も下も前後左右も、何にも切れ目が見えなくて、そりゃ怖いし、果てしないよ。
果てしないんだけど、たまに切れ目が現れて
抜けられるんだよね。
それは、安心 とか 本当に心のスペース
それと、決める ってこと
とにかくやってみよう、なんとかなるか
一つ一つ 向き合ってみよう
目の前の一つ 電話いっぽん どうにかしよう
って、その1つを 目の前の1つの
どきどき 怖いことが本当は怖くなくて
やさしいことを 確かめる
分からないから 聞いてみよう とか
それだけの ほんの僅かな ほんの些細な
一つが 溶けたら 解けたら 安心になる
ああ、大丈夫だったなぁ 良かったってこと
たくさんあったもん
自分が勝手に作ったエネルギーの壁なので
壁は無かった ということに気づくのも
これは自分なんだと 気づくことも
できるんだなと 思ったよ 今日もまた。









