私がこのところ気に病んでいる対象は社会の「全体主義」だと考えれば整理しやすいようです。
もう少し詳しく考えてみましょう。
全体主義というのは、個人の利益よりも社会全体の利益を優先させる主義思想のことになります。
しかし「全体主義」を政治思想の用語として捉えるとすれば、さらに狭義な意味合いが強くなります。それはナチスやスターリンの思想を指す言葉として使用されることが多かったという歴史があるからです。
全体主義を批判することは社会主義を否定して自由主義を目指すことのように短絡的には捉えられがちですが、私はもっと深読みしていきたいと考えています。
世の中は2項選択式に囚われすぎであると私は常々感じています。
今回のテーマに沿うならば、「右か、左か」 「資本主義か社会主義か」などなど。
中国古典に「中庸」という書物があります。昔少し読んだだけではありますが、この考え方を忘れないようにしたいという気持ちは今でも持ち続けています。
中庸とは「真ん中を取る」「どちらにも傾かない」というニュアンスだと捉えています。もっと「中庸」を読み込めば、真の意味は違ってくるのかもしれませんが、古代中国でこうした思想が書物として現代まで伝承されてきたことからも、私が共感できるような先人方がかなりの数、存在してきたのでしょう。
よって、既存の主義主張に固執するのではなく、また他方で既存の主義主張から学び取っていくという姿勢を保ちたいものなのです。
現代社会は私からすると全体主義が強い力を持っています。必ず生贄になる対象を作り出して、社会全体の安定を保っています。生贄となる者の声は封殺されています。
その封殺の手法が最先端の技術を駆使して作り出されています。それはなぜでしょうか。
国益にならない声を封殺することが正義とされているからです。だから堂々と最先端技術を投入でき、その行為に対して批判の声が挙がらない。その点では、情緒操作も最先端だと感じ取れます。
今こうして文章を書いていて「もっと具体的な例を示したほうが分かりやすいだろう」と思っています。しかし思いついている例が悉く公開の場に書くのが不適切だったり、私自身の保身的な臆病さから出来そうもなかったりしています。
私はいったい何を恐れているのでしょうか。命にまだ未練があるのでしょうか。全体主義を考えていっても詰まるところ自分自身という個人の主義にたどり着いています。
全体主義が破綻した要因には、「私のような思考経路を持った人々が現れて、全体主義が個人主義に置き換えられてしまい、不安定になってしまった」ということがあたのかもしれません。