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Last will and tastament 「私の遺書」解らないことを分かりやすく

空想家な私が死を迎える前における遺書としてのブログです。
 知的好奇心のみが私が未だ生きている理由であり、それらがアウトプットされる場面を空想しながら書いています。
 余命に予断が許されず、文章の保管場所としてブログを書いています。
 

人間の能力には様々なものがあります。
 
 社会において個人の能力を計る基準は何でしょうか。
真っ先に思い浮かぶのが「お金」ではないでしょうか。
「社会に役に立つ能力が高い人には多額の給料を支払う」
簡略な表現ですが、一定の真理であると思われます。
これを能力主義として、社会的にも正しいこととされています。
社会に大いに役に立っている人が、それ相当の収入を得ているのことに異論を唱える人は少ないでしょう。
 
つまり
 能力が高い→収入が多い
 能力が低い→収入が少ない
 
しかしその逆説となるとどうでしょうか。
 
 収入が多い→能力が高い
 収入が少ない→能力が低い
 
真理なのかもしれませんが、やはり違和感を感じます。
 
この真理には条件が付いているからです。
「能力とは社会に役に立つものである」という条件です。
 能力主義における能力には、社会に役に立たないものは含まれないのです。
 個人個人としては、役に立たない能力で対しても高い評価をする人はいるでしょうが、それに対して対価を支払い続けることはありません。
 
「社会に役に立つ」とはどのような意味でしょうか。
 いい表現が浮かびません。つまり解りません。
ではどうやって解答を導き出せばよいのでしょうか。方法です。
収入(お金)では計れない部分の能力の価値を評価できれば、社会に役に立つという意味が浮かび上がるように思います。
 
「人間の気持ち」でしょうか。
 しかし自分や他人の気持ちだけで個人は社会の中で生き続けることが出来るのでしょうか。
出来ないのは、自分や他人からの気持ちの評価を「社会的な評価である」と認識できないからだと思います。
 
 「あんなに想っていたのに」 「気にかけていたのだけど」
これらは個人を支え続けるには無力なようです。
 
 思考経路が行き詰ってしまいました。
それが意味するところは、
 「能力主義は現実にはあり得ない」ということです。
 
能力主義について考えてみましたが、この結論以上のものが出てきませんでした。
 
 
あすのあさ おきておぼえる むなしさが ゆくところなく あふこともなく