一年後の「シン・ゴジラ」と葛城ミサトと「草枕」
1年以上、間が空いてのブログだ。
先の書き込みは「シン・ゴジラ」だったが、先日も丁度、「シン・ゴジラ」がテレビでオンエアされて感慨深い。
改めてみて、ゴジラの破壊力のなかにみる震災のリアリティがハンパなかったが、
それよりも、破壊力があったのが、やはり石原さとみの快演(怪演)だった。
葛城ミサトというミューズを演じさせた感があって、そこに無理があり、ギャップが見事に破壊力に繋がったというか。
「君の名は。」の美人の先輩・奥寺ミキ*は長澤まさみが声優で演じていたのだが、このキャラも無理があって面白かった。
*あんな身なりのいまどきの女性なんて存在しえない。
新海誠も庵野秀明も、現実世界の体験は薄く、漫画やアニメの焼き直しのキャラをアニマとして軸とし、
現実の女性との乖離が激しいその存在は、オタク文化の力点となっていて、その周囲をリアリティがグルグルと回転している印象だ。
その感じは決して嫌いじゃないけど、そこをディスる人はとても多い。
映画館では、かぶりつきで見ていた「シン・ゴジラ」だが、テレビで見ていると、
本当にニュース映像を見ているようで、不覚にも寝落ちしてしまった。
もう「ブレードランナー」の続編も上演中。
ジム・ジャームッシュの問題作「パターソン」も好評につき延長(アメ村の映画館にて?)。
もたもたしているといろんなものが通り過ぎる。
昨日は、何度も途中で挫折した夏目漱石の「草枕」を読了するが、
ラストシーンのカタルシスが抜群で、しかし、どこか、既視感があり、
ひょっとして、一度、読んだのかも?と自分の記憶オチに呆れる。
庵野秀明にとっての葛城ミサト*のような軸を自分も携えておくべきかも。
*綾波レイという虚構に対する現実としての存在。