仏教について | SOLARIS ARCHIVE

仏教について

数年前、「あらすじ日本の仏教」という書籍のライティングを依頼されて、改めて仏教の歴史を調べた。改めていろんな発見があったので、今一度振り返ってみた。

仏教は調和をもって調和がとれ、構成された世界だと思っていた。しかし、調べてみると仏教世界はカオスそのものだった。釈迦の悟りを発端に始まったのは周知のことだが、実は仏教は釈迦がすべてではなかったのだ。

釈迦の教えは弟子たちが引継ぎ、さらに多くの僧が独自解釈で発展させ、地域や時代のニーズに揉まれて変容することになる。インドから中国、そして日本へ伝わった仏教は付加価値を幾重にも纏い、釈迦の思惑を遥かに超えた様相を呈していた(に違いない)。こうして膨大な経典が生まれたのだが、そもそも釈迦は、尊い言葉は文字にしないという当時のインドの慣習に従って口述記憶で弟子たちに伝えていたのだ。よって、経典が存在すること自体が釈迦の意向とは矛盾している。

菩提樹の下で悟り得た釈迦であるが「これは他の人間には無理なんじゃないか?」と思った。しかし、それではもったいないとバラモン教の最高神である梵天が現れ、人々に法を説くよう奨めたという。それくらい高度な悟りの技術、それを追求しようという僧侶もいれば、その教えと救済のスキルを多くの人たちにも提供しようという僧侶も出てきた。前者がいわゆる小乗仏教、後者が大乗仏教と呼ばれるようになる。ちなみに、小乗仏教というのは大乗仏教に対して器が小さいという意味で小乗と呼ばれているので蔑称であり、上部派仏教という呼び方もある。

小乗仏教は釈迦の教えをそのまま追求し、利他の精神ではなく釈迦のように生きることを目的とする。そして、なによりも釈迦という存在がすべてだ。
一方、大乗仏教というのは「ひょっとして釈迦以前にも仏の存在って有ったんじゃないか?」つまり、釈迦が生まれようが、生まれまいが仏教的な宇宙観というのは存在した、釈迦以前にも仏が存在していたというのが大乗仏教なのだ。

そこで、如来とか菩薩とか溢れるように登場する。そして、釈迦というのは仏の化身というポジションになって、仏教世界の無数の仏の中の一つに落ち着く。それで、密教になると空海は大日如来を宇宙の中心に据え、鎌倉時代に末法の世になると浄土がフォーカスされて阿弥陀如来に人々は注力するようになる。そんな具合に釈迦の存在感は案外と希薄になっているのだ。

はしょって仏教について語ると、今の時代は浄土真宗の信徒が圧倒的なのだが、その基本が築かれたのは鎌倉時代。密教にスポットが当たったのはごく最近のことだという。さらに、今の仏教習慣の基本となっている寺檀制度というのは江戸時代に構築されたもの。寺檀制度の目的はバテレン対策ということになっているが、実は宗教のネットワークを介して支配体制を確立したのだ。その代わり寺檀制度を行うことで葬儀は僧侶が執り行うことが慣習となり仏教界は経済基盤を得ることが出来るようになったのだ。

仏の存在の有無は別として、仏教は言うまでもなく人間が作ったもの、人間の生存と欲望をかけての精神史だったのだ。ある意味、仏教のみならず宗教は理屈では改修できないさまざまなものを引き受け、そして世界を稼働させるホルモンのようなものなのかもしれない。