水の深さを知られたくなければ、水を濁らせるのが一番簡単。
思想の浅さを知られたくなければ、難解な表現を多用すればよい。
真っ先に思い浮かんだのは昨今の政治家だったりするけど、エヴァンゲリオンなど昨今のアニメの中にもこんな感じの作品あったりするよね。
大衆演劇が歌舞伎の芝居を元ネタに芝居を立てたら、ややこしいところはだいたいムニャムニャに濁していたりしがち。そして、内輪ネタや下ネタなどの笑いをいれて濁したりしがち。
そもそも、大衆演劇の役者の名前とか劇団名とかたまに漢字の読み方がわかりにくかったりしませんか?
そして、目の前のお客さんは呆然としがち。ハンチョウかけにくい。
まさか、役者が同業者や目の前にいる数少ないファンのおばちゃんたちにマウント取りに行ってるとか?だとしたら、しょうもないですね。
役者の名前はシンプルな方が品があると思います。
小泉たつみとか里美たかしとか。誰でも読める名前の方が親しみやすくていいと思います。
なぜにポスター見ただけでは一体なんで読むのかわからないような名前を付ける役者がいるのだろうか?画数とかに拘っているのだろうか?
名前なんて出落ちみたいなものだし、名前を厳つくすればカッケーというのは典型的な昭和のヤンキー思想です。要はナメられないためですね。イキリみたいなものです。
まあ、旅人よっちゃんみたいに親しみやすい名前を付けて若い男の子をたぶらかすようなペテン師みたいなおじさんもいますからね。
大衆演劇界隈のブロガーにも似たようなひといますよね。親しみやすい名前を付けているけど、誰からも相手にされてなさそうな木川のおじさんとか、自称沓掛時次郎とか。
イキリ役者とヘタレブロガー。絶対に流行らないと思います。どう考えても流行りません。
また、こんな意見もあります。先日放送されたやすこのドッキリに対する意見です。
昔は芸能界と一般の世界に大きな隔たりがありました。はるか向こうに輝く星。それが石原裕次郎さんや美空ひばりさん。だからこそ、素を見る値打ちがある。スターがスターだったからこそ成立したのがドッキリ番組です。
一転して、今芸能人に求めるのは“憧れ”ではなく“共感”です。
芸能人もSNSで「私はこんな人間」を詳らかにする。見た人がさらに自分のイメージをデコレーションし「〇〇さんはこんな人」をそれぞれ固めていく。そんな中で「素を見せてナンボ」のドッキリをやると妙味以上に違和感が大きくなる。
イメージを抱くための材料にあふれ、イメージの多様化が進む昨今。イメージを逆手に取った意外性を狙うドッキリは限界点を迎えているのかもしれません。
それと同時に「人間には多面性があります」「真実の周りには“ハンドルの遊び”もあります」。そんなテロップを出さないとドッキリが成立しないほど、世の中自体がヘタっているのかもしれません。
なるほど、たしかに世の中が、界隈がダルいことになってますね。
大衆演劇の役者はスターではないですが、大衆演劇界隈では舞台の上から観る存在で、お金を払ってまで観たい(はずの)存在です。
なので、自分が思う役者像というものがそれぞれあって、例えばファンは「カムイはこんなひと、若丸はこんなひと」といったイメージを堅めてそれを全てだと思い込むわけです。
人間には多面性があるので、自分が思い描くイメージとは異なる面もあって当然なのですが、異なる面、取り分け悪い部分には目をつぶりたいものなんですね。
それゆえに、ブログで余計なことを書くなと言ってくるクレイジーな客もいるわけだ。この写真は私がイメージするものとは違うからブログに載せるなとか。役者もそういう声にいちいち対応するのがめんどくさくなって、SNSやブログに写真をあげるなといい始める。結局、ただ思い出をシェアしたいだけのひとまで排除される。大衆演劇は一部の岡惚れのままで止まってしまう。拡散などするはずがない。
大衆演劇とは多様に見えて実はモノクロで一面的なイメージをただ押し付けられているような気がしてならない。外国人がみたら尚更退屈でつまらないと感じてしまうかも知れない。大衆演劇には余白が少ないのだ。余白がないものを見るほどひとは暇ではない。例え暇だったとしても、別のものを見ると思います。
多様性とは相容れない世界のような気がします。だから、一部の人にしか刺さらないような気がします。
自分の身は自分で守るしかない。
旅人よっちゃんとか終身名誉顧問を名乗るストーカーオヤジから身を護るためのすべ。
ネットで拡散させることで攻撃的なオヤジから身を護るのだ。
世の中、いろんな人がいますからね。決して善人ばかりではないのです。キショいひとも多いから。
西園寺はあのオヤジから散々酔い潰されて、いろいろとセクハラされてそうだ。
池田酒乱サマー…お疲れサマー。



