∀表紙
タイトル/いのもとひろ 表紙イラスト/クロスケ

 『【Re:∀】』――遂に完成!!

 「TVアニメ『ターンAガンダム』を語り、遊び、広めよう」
そうした意図から、この企画が生まれ
昨年の6月から、参加者をネット上で大々的に募集しました
そして多大な反響をいただき、制作作業が進められていた当企画
長い編集期間を経て、ついに入稿を終え
この企画はここに完成を見ました
参加してくださった方々に多大なる感謝を
応援してくださった方々に多大なる感謝を

その内容、販売予定を、ここに公開いたします

                  文責:クロスケ(企画発案&責任編集)



 ――福音書を書くような態度でベートーヴェンについて書く権利を私はロマン・ロランにだけ認容する。なぜなら、彼は実際その精神で生きているのだから。 (アンドレ・シュアレス)

 君たちは「同人誌」というものを誤解してはいないか?
 日本近代文学は同人誌を土壌に育まれた.尾崎紅葉ら硯友社の人々によって作られた日本初の同人誌『我楽多文庫』には、山田美妙・川上眉山・巖谷小波・広津柳浪といった人材が綺羅星の如く集い、当時の文壇に大きな存在感を示していた.北村透谷・島崎藤村・平田禿木・戸川秋骨・星野天知らは『文学界』の同人であった.武者小路実篤・志賀直哉・有島武郎らによる『白樺』は誰もが知るところだろう.
 現代に蔓延る同人誌の卑俗低劣な印象など、文学史における同人の重みに比すれば物の数ではない.


 確かに――この雑誌『【Re:∀】』はTVアニメの同人誌である.
 だが、そもそも『∀ガンダム』というアニメの根底に流れるものは実に高潔な精神の血流であったと僕は信じる.
 そして我々は、福音書を書くような態度で『∀ガンダム』について書いたというわけだ.
 考えてもみたまえ……五年も昔に放映が終了し、それも当時の視聴率は僅か3%に過ぎなかったという作品……初代『機動戦士ガンダム』のように放映終了後に評価が高まったということもなく、ガンダムシリーズの長い歴史のなかでも「無かったこと」にされているような作品……それを今、性的描写を一切排除して、真摯に、誠実に、"福音書を書くような態度で"本にしたのである.


 我々は『∀ガンダム』から多くを享け、これに対して五年越しの返事をしたためた.
 故に『【Re:∀】』……この美しい往復書簡に触れないという手はあるまい.


 刮目せよ、諸君!
 不遇な名作のために筆を揮ったマイノリティの魂の慟哭を聴け!!
 我々がいかにこの作品を愛したか、そして愛しているか.我々がいかに"その精神で生きている"か.
 『∀ガンダム』とは、いかなる作品であったか――その総てを知れ!!





- 本誌内容 -

本文全116ページ、ボリュームたっぷりでお届けします
《巻頭イラストギャラリー》

~ メンバー制作のフルカラーイラストを、カラーページで完全掲載 ~
∀カラーイラスト
右下のものがネオ様の絵で、モロー風の力作です.左上、WoWoさんの作品は出色の出来!


《キャラクターミュージアム》

~ 『∀ガンダム』に登場するキャラクター達一人一人への評論&ファンアートを一挙掲載 ~
∀ミュージアム
ネオ様は評論四本、イラストを二枚描いています.やや手抜き.

《作品レビュー》

~ TVアニメ版を始め、劇場版、小説版、漫画版、全ての『∀ガンダム』を完全評論 ~
∀レビュー
TVアニメ本編の評論を執筆しております.もっと書きたかった.

《個人ページ&ゲストページ》

~ イラスト、漫画、評論、小説、参加者それぞれが自由勝手に『∀ガンダム』で遊びました ~
∀個人ページ1
素晴らしい表紙を描かれたクロスケさんの漫画.続きが読みたい!

∀個人ページ2
ネオ様の個人ページ.インク使いまくりで印刷屋泣かせです.
いきなりオスカー・ワイルドの引用から入ったりして暴走気味.(もう1ページあります)

《座談会》

~ 五名の参加者が『∀ガンダム』を存分に語り合った座談会を収録 率直な視聴者の意見がここに ~
∀座談会
基本的にヤバイ人ばかりが集まった座談会.僕も参加しましたが、たいへん居心地がよかったです.


《特別ふろく》

~ お客様へのオマケとして『∀すごろく』をもれなく添付!何時間もゲームバランスを練った自信作だ! ~
∀すごろく
無駄にリアルな背景を描いたのは、もちろんワタクシめであります.コマも二つほど担当.

- 販売予定 -
発行サークル/∀.S.S

販売価格/1000円
120ページオフセット印刷 全年齢対象
コミックマーケット69 2005年冬にて委託販売となります。

委託先/1日目(12月30日)・東G-26b 『ガンダーラプロジェクト』様
販売状況を見て、通販、同人誌書店への委託などを後日検討する予定です。

「お義理で買ってやろうにも、コミケにまで行くのは勇気が要りすぎるぜ!」という方は、僕に言ってくだされば本を確保しておきます.

 哲学における「他者」とは、レヴィナスが考察を重ねて批判したように、かなり自己的な存在である.故に「絶対他者」といった概念をその外部に位置付けなければならなくなる.この位置付けがあくまで上部であったという点がレヴィナスの倫理的側面を形成している.
 とまれ、レヴィナスの哲学は脱ハイデガーの意味合いを色濃く持っていた.彼はこんなことを書いている.


 ――わたしたちの偉大なる哲学においては、他者との関係は、究極的には自己意識の用語法で語られ、そこに回収されてしまうのである。(エマニュエル・レヴィナス『モーリス・ブランショ』)


 自己意識に回収されるすべての他者性を、僕は「異邦」と呼ぶ.真の「他者」は認識できないものであって、他者性を吟味し得るものは既に「他者」ではないのだ.つまり、我々が「他」だと思い込んでいるものは残らず「異」に過ぎない.
 「異」という概念は自ずから自己的であることを表明する.「他」は初めから「他」として定義付けられているが、「異」は自己省察をも含みながら形成される他者性なのである.
 つまり、「他者」が「異邦」に置き換えられたとき、我々は恐怖心と好奇心の交錯する複雑な感情をもって、それをおずおずと解明することを余儀なくされるのだ.






 『螺鈿協奏曲』

 ――夢は覚めました、けれど夜はまだ続きます。
        グリルパルツァー 『金羊毛皮』


 「異邦」
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 癇にさわる曲が流れていて、給仕がこちらに気付かない.
 大声で注文を叫ぶと、賑やかだった店の雰囲気がふっと醒めた.
 ぞろりと背の高い青年が、こちらに歩み寄ってくる.
 傍らに立たれてみると、長い影が周辺を覆って、なんとも落ち着かない.
 その青年は私を見詰めると、奇妙な言葉を呟いた.
 大きい声でもなかったが、あたりはいっそう静まり返った.

 居たたまれない気持ちで、青年の顔を見ると、左の眼球が白濁していた.
 片方の黒い瞳で瞬きもせずにこちらを睨むので、恐ろしい心地がする.
 席を移ろうと腰を上げると、また青年は何か知らぬ言葉で喋った.
 今度は語気が荒く、掴みかからんばかりの勢いである.
 そして、それまで私が座っていた椅子を、ひどく強い力で叩く.
 ぎらついた目でいうので、私は仕方なく席へ戻った.


 いつのまにか、酒場の者たちはみな立ち上がってこちらを見ていた.
 若い男ばかりで、みな不気味なほど背が高い.
 離れたところで一人がぶるぶると震え出し、叫ぶように何か言った.
 傍らの青年は、透き通った声で何か言い返した.
 すると、また別の席から耳障りな声が上がった.
 左眼の見えぬ青年はその度にやり返している.


 店の娘が、小さなグラスをコトリとテーブルに置いた.
 グラスの中には、赤黒いようなどろついた液体が入っていた.
 娘は澱んだような表情で、私が呼び止めるのも聞かずに行ってしまった.
 鼻を近づけて嗅いでみると、甘ったるい生臭さがむっと臭った.
 グラスをじっと眺めていると、店の連中が薄笑いを浮かべ始めた.
 傍らの青年だけ、張り詰めた表情で辺りを睥睨している.


 私は、少し迷った挙句、グラスの中身を一気に呷った.
 錆びた釘を嘗めたような味が口中に広がった.
 わッと店の中が湧き立った.無遠慮な笑い声がそこいら中で起こった.
 傍らの青年は、しばらく凍ったように立ち尽くしていた.
 そして、吐き戻すのを必死で堪えていた私の肩を掴んで、
 「馬鹿ッ、吐き出せ!」と言った.
 店内は、水を打ったように静まり返った.
 どこからか、グラスが投げつけられて、青年の頬にあたって砕けた.


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夜半に咲く花にすぎないわたしは



 スカルダネリという名をご存知だろうか.これは狂気にくずおれたヘルダーリンの、なおもって已まぬ薄明の詩作に刻み込まれた筆名である.


 高名な『ヒュペーリオン』も『エムペドクレス』の草稿も、後期の詩集も、ヘルダーリンは三十代半ばまでに物している.早熟の天才といって差し支えないだろうが、しかし彼は夭折の詩人というわけではない.
 ヘルダーリンは七十三歳まで生きている――三十六年もの歳月を、狂人として.


 かつてヘーゲル、シェリングと親しく交際し、共に次代の精神世界を背負うかのようであったヘルダーリンは、途方もなく長い精神の夜を過ごすことになった.ネッカー川のほとりには今も、詩人が後半生を送った「ヘルダーリンの塔 」が遺されている.
 彼はこの塔のなかで、訪問者に乞われるまま詩を書いてあたえたという.その名を呼ばれることを厭い、作品にはスカルダネリと署名し、架空の日付を寄せた.スカルダネリの詩は穏やかで優しく、狂人の手によりながらも詩形式を失わないという点で読者を驚かせはするのだが、やはり以前の気高く偉大なヘルダーリンの詩業と同じものではない.


 詩人の母親は我が子のことを繰り返し繰り返し「ふしあわせな息子」と呼んでいるが、実際これほどの不幸があったものだろうか.僕はヘルダーリンの神々しい芸術に触れるたび、嗚咽に近いものが込み上げるのを抑えられない.
 だが、この不幸はあらかじめ約束されたものであったのかもしれない.南方の旅先から友人にあてた手紙にヘルダーリンはこう書いている.


 ――強力な元素、天空の火、人間たちの静けさ、自然のなかでの彼らの生活、そして彼らの限られたありかたと満足、それらがわたしの心を休みなく摑んだ。そしてひとが英雄たちについて言う表現に従えば、わたしはこう言うことができるだろう。アポロがわたしを撃ったのだと。


 芸術家があるいは発狂し、あるいは貧困の中に死んでいくのを、社会に押し潰されたとか、世の中が悪かったなどという卑近な結論に導くのは俗人の傲慢である.そんなくだらないものに偉大な精神が弑されることはあり得ない.たとえばコクトーの記した死の床でのラディゲの言葉は、きわめて象徴的だ.


 ――三日後に僕は神の兵隊に銃殺されるんだ……


 ラディゲは、『ドルジェル伯の舞踏会』の成熟した美を思えば信じ難いことではあるが、僅か二十年でこの世を去っている.その彼が神の兵隊に銃殺されるといった.ヘルダーリンも旅先で同じことを思ったのだろう.アポロに撃たれたというのは、そういうことだ.


 ヘルダーリンの詩に、自身の運命を予言するような一節がある.僕はその悲劇を想い、この絵を描いたのである.


 ――夜半に咲く花にすぎないわたしは
   天上の光よ おんみの前に恥じ入りながら
   よろこびの声をあげてしぼむのだ。
             (ヘルダーリン 『オーデ』)

 子供の頃、従妹が難病に罹った.
 合併症か何かのために命が危ぶまれているということから、僕も彼女を見舞うことになった.


 幼い僕は病床の従妹を見て凍りついた.
 目が充血し、唇が真っ赤になり、全身に発疹が出て、指先から皮膚が剥けていくという、恐ろしい症状が出ていたのである.
 そもそもお見舞いというと「果物を食べながら談笑する」といった和やかな印象しか頭になかったので、意識のない従妹とすすり泣く家族の姿は、それだけでも衝撃的であった.
 広い病室に山と積み上げられた見舞いの品.そのなかにはフランス人形まであって、不安をいっそう駆り立てる.僕は哀れをそそられると同時に、すっかり逃げ出したくなってしまった.


 その頃の僕はなぜか、木製のてんとう虫に車輪がついたものを紐で引くという、いやにクラシックな玩具を宝物にしていた.遠い病院にまで持っていったのだから相当な入れ込みようである.
 そんな大切なてんとう虫を、僕は従妹にくれてやることに決めた.思いやりのあることだと誉められたものの、本人はそれどころではない.平癒祈願半分、おそろしい見舞いを切り上げるための"いけにえ"として意味合いも半分あったのだ.
 効果覿面とでもいうべきか、てんとう虫と引き換えに見舞いは終わった.病室を出ることが出来て心からほっとしたものである.しかし考えてみると、ほっとしたのは僕だけではなかったに違いあるまい.今でこそ感染症の疑いこそあれ伝染の心配はないとされている病気だが、当時はかなり厳重に隔離されていた.僕のような子供が病室に入れたのは、従妹の容態が本当に危険だったからなのだそうだ.


 ところでてんとう虫の捧げものは、もう半分の意味でもたいへんなご利益があった.
 助からないと思われていた従妹の病状が快復に向かい、やがては完治するに至ったのである.
 次に病院を訪れたのは退院間近の時期で、こちらは楽しい見舞いになった.相変わらず隔離されたままで退屈しきっていた従妹は僕の顔を見ただけでも大はしゃぎするし、大事な玩具をプレゼントしてくれたおかげだなどと妙なおだてられ方をするしで、僕も悪い気はしなかった.てんとう虫も返してもらえた.


 めでたしめでたしといったところだが、ひとつ気になることがあった.
 たくさんの見舞い品のなかに、例のフランス人形の姿が見えなかったのである.
 もちろん退院に先んじて家に持って帰ったと考えるのが妥当だろう.ところが、それは病室のなかにあった.
 てんとう虫の玩具がコロコロと転がってベッドの下に入ってしまったとき、それを取ろうとしゃがみ込んだ僕は、暗がりのなかにあの時の人形を見つけた.
 人形は、ベッドの下で病気になっていた.
 目が充血し、唇が真っ赤になり、全身に発疹が出て、指先から皮膚が剥がれ……従妹のそれとまったく同じ症状が人形の白い肌を覆っていた.
 僕は恐怖で汗びっしょりになったが、なにも見なかったことにした.このことは、なんとなく、公然の秘密のような気がしたから.


 家に帰ってから、てんとう虫の玩具をしげしげと眺めた.
 赤や黒で塗り分けられた羽根の模様は、確かに以前と変わらないはずである.
 だが、どこかしら病的な色合いになったようにも思える.
 僕はそのてんとう虫に、なにか毒のようなものがこびりついている気がした.
 それでそのまま机の引出しに放り込んだ.そして、二度と触ろうとしなかった.


 ……どこからどこまで本当の話かは自分でも判らないが、こんな記憶がはっきり残っているのは確かだ.
 おそらく「伝染る」ということに対する子供心の嫌悪感が、後半の部分を脚色させたのだろう.

 ともあれ、思い出ぶかい「てんとう虫の玩具」を登場させてみたのが、この「顎鬚」である.

 角川短歌賞の審査員を務めておられたある歌人の方に読んで頂いたとき、衣擦れの音は「スイ、スイ」とは聞こえないと注意されたことが印象に残っている.
 僕はこの頃、実際にどんな音がするかなぞどうでもいいと思っていた.





 『螺鈿協奏曲』

 ――夢は覚めました、けれど夜はまだ続きます。
        グリルパルツァー 『金羊毛皮』


 「顎鬚」
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 布団に横になっていると、部屋の戸が開かれ、明りが点った.
 スイ、スイ、と長い着物が這うような音が聞こえる.
 薄く瞼を開いて盗み見てみると、女の脚のようだ.
 その足首に触れようとしても、爪先で滑るように逃げてしまう.
 女の顔を見てやろうと思ったが、体は少しも動かない.
 身をねじることも出来ず、腰のあたりと、布団から伸ばした左腕が、きりきり痛む.
 私は、どうやら低い声で呻いたらしい.
 「ごめんなさい」
 女の声が、瑪瑙を磨きたてたような響きで、布団の上にこぼれ落ちてきた.
 そして、明りが消えた.

 暗闇の中でまだ、女は部屋を徘徊ついていた.
 探し物をしているようで、ひっくり返したり、引き摺り出したり、騒がしい.
 耳を澄ましていると、ガラリと、机の引出しを開けるような音がする.
 なぜだか、その引出しだけは見られてはならないような気がした.
 「てんとう虫の玩具は、どこへやったの」
 困り果てたように訊ねてきたが、てんとう虫なぞに覚えはない.
 そう言ってやりたいのに、喉がごろごろと鳴るばかりである.
 女はしばらく、部屋の中を這い回り、やがて出て行った.

 気付かぬうちに朝になっていた.
 先刻のことを考えていると、母が部屋に入ってきた.
 ひどく散らかっているのに驚いて、しきりと文句を言う.
 昨夜の出来事を話して聞かせると、「うそばかり」と笑う.
 「怖い夢でも見たのでしょう」と、部屋を掃除しはじめた.


 寝床を片付けようとすると、布団の中に玩具が転がっていた.
 木製のてんとう虫に麻で結った紐を括りつけた玩具も、そこにあった.
 てんとう虫を手に眺めていると、母はそれをもぎ取って、机の引出しに放り込んでしまった.
 強い音を立てて引出しが押し戻されると、一瞬、しん、と部屋の中が静まり返った.


 部屋を出て行くとき、母の着物は、スイ、スイ、と音を立てた.
 その跡には、ぬらついた粘膜でも残るように見えた.
 私は、顎を撫でた.
 夜のうちに生え出してきた鬚が、吸い付くように指を擦った.


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 偉大な芸術作品の理解者は、まずもって創作には携わらない.
 理想と現実の距離があまりにも大きすぎるからである.
 僕の場合、高校時代にヘッセの『知と愛』を読んで「こんな小説が書きたい」と思った.同時に「書けるわけがない」とも思った.
 それでゲームのシナリオのようなものを書いたりしていたが、正直いってつまらなかった.作品もつまらなかったが、それ以上に創作行為自体を僕自身がつまらないと感じていた.

 しかし漱石の『夢十夜』を読んだとき、「これならいけるかも」という気がした.
 もちろんいけるわけがないのだが、たとえば太陽を鉄拳で破壊するよりは月を頭突きで割る方が簡単そうだという程度の気持ちである.
 内田百閒の作品に触れることで益々励まされた.どうやら方向性を模倣しても問題ないらしい.

 それで書いたのが『螺鈿協奏曲』である.小説というよりは散文詩に近い.
 方向性どころか内容まで類似しており、ほとんど盗作になっているけれど、まだ十代の頃の作品なので許してやって欲しい.




 『螺鈿協奏曲』

 ――夢は覚めました、けれど夜はまだ続きます。
        グリルパルツァー 『金羊毛皮』


 「欄干」
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 薄暗い宿だった.
 低い欄干のついた出窓がある.
 飾りの影が、すっと足下まで伸びている.
 水っぽい床を焼くように、細い光が差し込む.
 外を覗くと、往来で子供たちが駆け回り、声がよく響いてくる.

 出窓に腰掛け、子供たちの遊ぶ様子を眺める.
 ふと、ひとりの風変わりな少女に気が付いた.
 大人びた淡い緑の着物に、薄紅の華やかな帯を締めている.草履は白い.
 離れたところで、何をするでもなく、他の子たちを目で追っている.
 段々と暗くなって、子供たちは方々に散っていく.

 すっかり夜になった.
 ふと、うすものを纏っただけの女が部屋の片隅に座っている.
 顔を上げると、例の娘である.
 白粉を塗っていて、生々しい唇がてらついている.
 娘は何か一言ふたこと、呟いた.

 落ち着かない気持ちで、荷物の中のビスケットを取り出した.
 勧めると、傍へとすり寄ってきて、私の手から菓子を食べようとした.
 からだに押し付けられた肩のあたりの肉が、えらく熱い.
 娘はザックリと一口かじると、一寸眉をひそめた.
 「湿気っているわ、これ」
 そういって、食べかけを私の鼻先に突きつける.

 食べかけのビスケットを、私は見つめた.
 娘の歯形がついていて、少し、娘の唾液で濡れている.
 私は後ろを向いて、細く窓を開けると、戸外にビスケットを放り投げた.
 冷たい空気が窓から流れ込んで、火照った頬を冷やした.
 振り向くと、娘はもうそこにいなかった.

 外で、声が聞こえた.
 窓をひらくと、真っ暗な夜の往来で子供たちが遊んでいる.
 少し離れて、娘もいる.
 機械の車が回るような音で、子供たちは舞うように跳びはねている.
 娘は、それを薄く微笑んでながめている.

 思わず部屋を出ようとした.
 ところが、出口がどこにもない.
 部屋には、例の窓がひとつあるばかりである.
 呆然として出窓にもたれかかっていると、子供たちがこちらを見た.
 どの顔にも、まるで表情がなかった.

 そのうちに、娘もこちらを向いた.
 そして一瞬、私の目を真っ直ぐに睨みつけた.
 やがて彼女は腰を上げ、白い草履の幻影を残して、闇の中に消えていった.
 娘の姿を捉えようと、私は、欄干から手を伸ばした.
 腕だけが、夜気のなかで冷たくなっていった.


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 ピナ・バウシュの舞台「バンドネオン」 を観た.
 これがまた退屈な舞台だったのだが、しかし鮮烈な印象を受ける場面がないわけではなかった.上記のリンクに写真もある、


 ――女性は男性の曲げた腕にまたがり魔法にかけられたように男性の腰にまとわりつき、死に物狂いにつかまり運ばれるままにまかす……


という身体表現である.


 タンゴは女性上位社会の民族音楽と言える.
 というのも、移民国家のアルゼンチンはその創立期において国民の男女比に偏りがあったのだ.新天地を求めて故郷を後にする流れ者は、当然ながら男性が多い.そうした男性たちは数少ない女性たちの気を引こうと躍起になる.女性からすれば選り取り見取りといったところだが、男にとっては堪ったものではない.
 古典タンゴには失恋した男性の歌が圧倒的に多い.当時の歌手や俳優がいわゆる「コンバドレ(伊達男)」であったのも、洒落のめした粋な男でなければ女性にそっぽを向かれてしまうという文化的な背景を持っていたからなのだ.
 このようなタンゴにおける男女関係を踏まえれば、ピナ・バウシュがタンゴを題材とする舞台「バンドネオン」で表現した男女の交わり方は、なかなか的を射たものと言えるのである.


 さて、そんな身体表現から得たイメージを自分なりに描いてみたのが次の絵である.



タイスは踊る 習作

『タイスは踊る』のための習作


 これはこれでおどろおどろしくてタンゴらしいといえばらしいのだが、あまりピナ・バウシュ的ではない.
 この習作を下敷きとしてクリムト風に仕上げたものが次の作品、『タイスは踊る』の完成版である.



タイスは踊る

『タイスは踊る』


 最終的に男性の顔はクリムトを模した装飾文様に埋もれてしまった.女性の側も肢体こそ男性に絡み付いているものの、その表情はどこか遠くを見つめている.ピナ・バウシュの舞台から想起されるものはこちらに近い.


 ところで、この絵は「クリムト風」では済まされないほどにクリムトの模倣である.僕はこれまでの作品でもしばしば名画を引用しているのだが、この『タイスは踊る』ではその傾向が特に顕著で、こと黄金の額縁などはクリムト「ユディトⅡ」 からそのままコラージュしている.
 この絵を描いていた頃、たまたま「銀のクリムト」と呼ばれていた若き日のエゴン・シーレの作品を観て、それがあまりにもクリムトに似ていたために「別にいいかな」と思ってしまったのだが……
 全然よくなかったかもしれない.


 題名はアナトール・フランスの小説『舞姫タイス』から.
 今では原作よりもマスネーのオペラの方が有名である.


青い壺

「蒼い壺」(文庫版3巻「ジーナと五つの青い壺」より)


 たとえば、ロダンはバルザック像を作った.そしてロダンについての評論は、彼の秘書を務めたこともあるリルケによって見事に完成された.またヘルマン・ブロッホは『ホフマンスタールとその時代』のなかで、リルケその人の創作を「涜神といえるほど高められた文学的手段」といって讃えている.
 彼らは芸術をもって――あるいは芸術的な批評の言葉をもって――芸術にむくいた.これは芸術と向き合う上での正しい作法と言えるだろう.
 ところが現代においては、どうもこの作法は貴ばれないようである.優れた作品へのオマージュは、その高みに上ろうというよりも、むしろそれを卑近なところにまで引き下げようという姿勢で行われている.嘆かわしいことではないか.



毒

「毒」(文庫版14巻「毒」より)


 そんな思いで描いたのが『寄席の脚光』である.
 『寄席の脚光』というのはフェデリコ・フェリーニがロベルト・ロッセリーニと共同で監督した処女作品の題名だが、ただ字面を借りただけで深い意味はない.
 このシリーズは美内すずえ『ガラスの仮面』へのオマージュ、『ガラスの仮面』の劇中劇に想を採ったものなのだ.



二人の王女 アルディス 二人の王女 オリゲルド

「アルディスとオリゲルド」(文庫版15~16巻「二人の王女」より)


 『ガラスの仮面』の芸術的価値は他に求め難い.
 ほとんどの名作マンガはマンガのマンガ的な弱点を克服しようとする.既存のマンガらしい絵柄から逸脱し、半ば絵画的な領域にまで踏み込むことで芸術の高みを目指していく.
 ところが『ガラスの仮面』はそうではない.首尾一貫して少女マンガらしい絵柄を保持しながら、そのままで芸術になってしまう.ひとつの表現手段――それもかなり不自由な表現形式――にこれほどの可能性が秘められているというのは驚くべき事実である.
 『ガラスの仮面』を紐解けば、読者の精神には目に映るものを遥かに凌駕した強烈なイメージが飛び込んでくる.ひとつの演技が、ひとつの場面が、それぞれ名画の題材となるにも相応しい美と芸術の神秘を具えている.それこそ、かつて画家たちが汲めども汲み尽くせぬ泉として貴んだ聖書のように.


火 水
「炎と水」(文庫版21巻「紅天女」のための課題より)

月影

「月影」


 『神々は渇く』は西洋的な印象の強い作品集であった.
 もちろん芸術は洋の東西を問わない.日本人が西洋画を描いて悪いということはない.しかし本当の意味での普遍性とは、無意識のうちに西洋芸術に傾倒する盲目的な在り方とは立場を異にするはずである.
 実際、師である天才画家・蔡國華 氏の作品には小理屈では言い表せない東洋的なイメージが想起される.とすれば、自分の絵がまるで東洋的でないというのは等閑視すべからざる事実なのではなかろうか.



夜想

「夜想」


 そんなことを考えていた折、ちょうど師匠について中国蘇州を旅する機会に恵まれた.中国の田舎には、まだパッケージングされないままの東洋があった.なにしろ小さな猿を抱いた老人が、二千年前から変わらぬ遺跡のような壁を背にして、のんびりと日光浴しているのだ.東洋的なイメージなど殊更に求めることもない.目の前にあるものが既に東洋なのである.



バルタザアル

「バルタザアル」


 東洋を親しく眺めたという経験は、果たして一つの答えとなった.だが、それによって作品全体を東洋の色に染め上げるということにはならなかった.見出したのは、「黒」という色彩の用い方だけである.



アルガーバル

「アルガーバル」


 黒を「陰影」ではなく一つの「色彩」と見るのが、僕のなかの東洋的感性.俗な表現をすれば水墨画的とでも言えるだろうか.
 そういう色彩感覚を目指して描いたのが、『東方巡礼』である.



若き詩人への手紙

「若き詩人への手紙」


 『東方巡礼』の名はヘッセの小説に由来する.
 ゲーテが『西東詩集』で、またヘッセが『東方巡礼』で書いたように、どこか遠くにそれを求めてみなければ容易には東洋的アイデンティティを見出せないのが、現代に生きる日本人の悲しさだろう.



示唆の茴香
「示唆の茴香」

氷塊の流れる音、ふたたび芽吹くもの
「氷塊の流れる音、ふたたび芽吹くもの」


 『Umschau』というタイトルはシュテファン・ゲオルゲの詩から借用したものである.
 ゲオルゲの「Umschau」という詩は、日本では「回顧」と翻訳されている.ところが独和辞典を引くと、「Umschau」という言葉は「展望」と訳される.回顧と展望.かつてゲーテが古代ギリシャを回顧しつつ新しい文学を展望したように、芸術はすべからく回顧にして展望であるべきではないか.
 そんな思いから、来るべき古典標榜の時代を「Umschau」と名付けた.また自分のサイトも、純粋美術としてのコンピュータ・グラフィクスの確立や古典的文学作品のwebでの公開といった目標を回顧と展望によるものとして『Umschau』というタイトルに決めた.



地下深く隠れる泉に触れる時
「地下深く隠れる泉に触れる時」


 さてブログ開設にあたって、より小さな意味での「回顧と展望」を行おうと思う.すなわち、自分の今までの作品をざっと見返して、解説しようと.
 それは「高貴さを示す」という本家サイトの感覚すればいかにも自己満足的で、自ら許すところのものではない.

 しかしブログのなかでということであれば、僕はこれを許容できるだろう.世間の日記ブログと同じ程度の自己満足として.



叡智の緑の陰
「叡智の緑の陰」


 まず、これまでに描いてきたCG作品について.
 CGというジャンルには、なぜかCG的であらねばならないという暗黙の了解が付き纏う.CGらしい感性、CGらしい技術.コンピュータで作られる美術作品は、ときに動画でなければならなかったり、ときに3Dであることが求められたりする.しかし、たとえばガラス工芸が必ず透明のものでなければならないとか、日本画は絶対に桜か富士山を描かねばならないといった決まりがあるとは寡聞にして聞かない.CGという表現手法で古典的な絵画を標榜しても何ら問題はないはずである.
 ことに僕は、クリムトやルドンの絵画を画集と実物とで比較してみたとき、CGの絵画的可能性を強く思わずにはいられない.画集を手にとって耽溺したクリムトの美は、展覧会で目の当たりにした「モノ」としてのクリムト作品とそれほど違わない.つまり彼の幻想的な作品は、情報としての価値と存在としての価値に大きな懸隔を感じさせないのである.とすれば、その美を情報としての価値しか持たないCGという媒体に置き換えることは決して不可能ではないということになる.
 僕のCG作品はその点を強く意識している.情報であることと、モノであることとの隔たりを意識させないような絵画.
 僕なんぞでは到底実現し得ないが、たとえばもし現代にクリムトが甦ってCGという表現手法を選んだとすれば、これは非常に面白い.CGには画集よりも価値あるモノとしてのオリジナルは存在しない.すなわち、誰もが自由に鑑賞できるオリジナルがネット上・コンピュータ上に偏在することとなるのだ.売り絵という概念は消滅し、画家は作品の部分的な権利だけを売るようになる.なんとも愉快ではないか.



緋の色の朱らみをくぐって
「緋の色の朱らみをくぐって」


 そんな思想を作品化するようになった最初のシリーズが、この『神々は渇く』である.
 『神々は渇く』というのはアナトール・フランスの著名な歴史小説の題名で、作中のブロトという登場人物と同じ視点で女性を描こうという意味で名付けた.

 ――彼はいくつかの操り人形に注意深く彩色を施し、あの女優のテヴナン嬢に似た一つのゼルリーヌ人形を作った。あの娘は彼の気に入っていた、そして彼のエピキュリスムはあの娘を構成している原子の秩序を称えていたのである。(アナトール・フランス『神々は渇く』)

 女性を構成する原子の秩序を称えるという距離感は、なかなかに小賢しい.なまな女性性を愛するのとはまったく意味を異にする感覚である.それは情報としての美術にふさわしいものではないかと思われる.



森の空地に照る星
「森の空地に照る星」

 『Blog-Umschau』は、長らく作品発表の場として管理・運営してきた『Umschau』というサイトのブログ版である.

 本家の運営方針は、トップページに掲げた「ここに汝の高貴さを示すべし」というダンテの言葉に集約される.禁欲的なデザインに、選び抜いた作品.余分なものは可能な限り省き、雑多な「ホームページ」にはしない.
 しかし、実際のところはなかなかそう厳格にゆくものではない.
 ひとつの文学評論として完成されていなくとも、簡単なレビューを載せたくなる時がある.マンガやゲームについて語りたくなることもある.作品発表の合間は日記ででも埋め合わせたい.
 その皺寄せが、つい掲示板に向けられてしまう.掲示板の記事ならば書き捨てだから問題ない.何を書いても構うまい、と.
 それならばいっそのこと、雑文はブログにまとめてしまおうと考えた.掲示板の過去ログに流れていくのは惜しい文章でもブログなら潰しが効く.ある程度は無駄でなくなる.

 作品発表よりも雑多な文章を中心としたブログになると思うが、一人でもこれを喜んでくれる読者があれば幸いである.