本日、12月23日は、

太上天皇(先帝陛下)の御生誕の日であります。

 

大日本帝国が中核的役割を担っていた国際連盟の脱退を表明した、

昭和8年(1933年)12月23日、午前6時39分、宮城(現皇居)内の産殿にて、

昭和天皇、香淳皇后の第5子にして初の皇子(第一皇男子)として、
ご誕生あそばされました。

 

 奉祝歌

皇太子さまお生まれなつた 北原白秋 作詞、中山晋平 作曲


 

明仁親王殿下(皇太子殿下)は、満2歳の昭和11年(1936年)3月29日には、

皇室の伝統的慣習に基づき、将来の

天皇になるべくして、ご両親の元を離れ、赤坂離宮構内の東宮仮御所で、東宮傅育官のもと、

ご修学あそばされます。

 

昭和15年(1940年)、学習院初等科に入学。

就学と共に剣道を練成あそばされます。

 

学習院初等科2年次在学時に、日米が開戦。

5年次の昭和19年(1944年)、大東亜戦争(WWⅡ太平洋戦線)の戦火の拡大により、

栃木県日光市の田茂澤御用邸に疎開あそばされ、

後に奥日光湯元にお移りあそばされます。

さぞ、お辛い思いをなされたと存じます。

当地で、終戦。その後、皇居へ還啓あそばされました。

 

昭和27年(1952年)11月10日には、立太子の礼(皇太子が自らの立太子を宣明する皇室儀式)と皇太子成年式が皇居、表北ノ間で挙行あそばされます。

 

翌昭和28年(1953年)3月30日からは、半年余りにわたり、ご外遊あそばされ、

欧州12か国および米国、連邦加盟加国をご歴訪。

同年6月2日のエリザベス2世英国女王の戴冠式には、

昭和天皇の名代として、御臨席(列席)あそばされました。

 

昭和32年(1957年)8月19日、避暑で訪れた軽井沢の庭球大会で、日清製粉会長(当時)で

あった正田榮三郎の長女美智子さまと出会い、テニスを通して交際を深め、

昭和34年(1959年)1月14日に納采の儀が、同年4月10日には、結婚の儀が執り行われました。

明治以降では初の皇族、華族以外からの皇太子妃(将来の皇后)であり、また御成婚に至る過程が報道されたこともあって、国民から熱烈に歓迎されたようです。

同年7月15日に、皇太子妃、美智子妃殿下の第一子ご懐妊が発表され、

翌昭和35年2月23日に第1子、第一男子浩宮徳仁親王殿下がご誕生さそばされます。

 

ご婚礼を祝して作曲された祝典行進曲 作曲 團伊玖磨

 

 

沖縄祖国復帰(沖縄返還)が実現して3年後の昭和50年(1975年)には、

沖縄県に行啓あそばされ、沖縄海洋博の開会式・閉会式を親覧あそばされました。

この際、お召の車に缶などを投げつける輩や、ひめゆりの塔に献花あそばされる

皇太子殿下、妃殿下に向かって火炎瓶を投げつけるなどをしたテロリスト(沖縄解放同盟準備会メンバーの知念功と共産主義者同盟のメンバー)がいました。誠に腹立たしいことであります。

 

その後も、病臥した

昭和天皇の名代として沖縄を行啓あそばされました。

 

 

皇太子殿下(明仁親王)が、御詠みあそばされました二首の琉歌です。

 

「だんじよかれよしの歌声の響 見送る笑顔目にど残る」

「だんじょかれよしの 歌や湧上がたん ゆうな咲きゆる島 肝に残て」