漲水御嶽から宮古神社にやって来ました。



宮古神社は沖縄県宮古島市に1590年(天正十八年)に建立された、
(神社本庁包括下の神社として)国内最南端の神社です。

      
一の鳥居前の狛犬


宮古総鎮守 宮古神社 一の鳥居社号額
 (一の鳥居 高さは6.7m)


       

昭和天皇御製
わが船に とびあがりこし飛魚を さきはひひとしき 海を航きつつ

 (碑文) 
御製碑建立の由来
 昭和天皇は皇太子時代の大正十年三月三日、横浜港から御召艦「香取」に御乗艦になり、供奉艦「鹿島」とともに初の御外遊へと旅たたれました。御生涯で三回の御外遊のうち最初の旅でした。お召艦「香取」の艦長は沖縄県出身の漢那 憲和海軍大佐でした。
 御戸渡欧の途、三月六日午前九時十分、沖縄本島中城湾内に入港、与那原より五海里の沖合に投錨。那覇と首里を御訪問。午後六時、艦隊は長い汽笛を残して出航なされた。
 翌三月七日午前五時、御召艦「香取」と供奉艦「鹿島」の両艦が軸艦相衡んで宮古島沖を航行の際、珍しくも時を同じうして飛魚が三尾づつ両艦の甲板上に躍り込み溌溂たる銀鱗を閃かして、さも此の未曽有の御壮途を祝し参らするかのような此の瑞相。折から今や明放れんとする東方水平線上は赤い南国の太陽が静かに波の上に影を現はされんとする荘前厳なる光景に殿下は益々御喜びを深うせられた。
 御前八時御召艦の位置は、わが故郷宮古島の東約十五里、海上少しく波浪荒く南の風力二万至三、気温七十五度殿下機嫌麗しく渡らせらる。
 御製は、昭和天皇が当時の光景をご回想されて昭和四十二年一月の歌会始にお詠みあそばされたものであります。
 平成二十三年は御外遊あそばした大将十年から九十周年を迎えます。この記念すべき年にゆかりの地・宮古島の誠を結集。
昭和天皇御製碑をわが国最南端に位置する宮古総鎮守の宮古神社の第一鳥居のお側に建立いたし宮古・沖縄はもとよりわが国の安寧と世界の平和を願うものであります。
         平成二十三年八月七日    



 二の鳥居(高さ7.2m、木造(ラオス産ヒノキの千年木を使用))

       

 宮古総鎮守 宮古神社
祭神 主神六柱
 熊野三神・波上宮より勧請
  速玉男尊 はやたまをのみこと(清浄の得を司る神・豊年豊漁の神)
  伊弉冉尊 いざなみのみこと (天照大神の母神・国土五穀生みの神)
  事解男尊 ことさかをのみこと(平和守護の神)
 豊見親三神・旧町社 宮古神社の祭神
  目黒盛定政命 めぐろもりていせい(宮古統一の祖)
  与那覇恵源命 よなはけいげん  (宮古開基の祖)
  仲宗根玄雅命 なかそねげんが  (宮古中興の英王)
 別鎮斎
  竈三柱神 かまどみはしらのかみ(火神)ひのかみ

 由緒
天正十八年(1590)平良大首里大屋子(地頭職)平良(名・要宇か)が
 海難漂流するも九死に一生を得て八年後に帰国す
 これ皆故国の神々のお陰と琉球第一の宮・波上宮の神々を宮古に勧請す(由来記)

 慶長十六年(1611)薩州の検地使の上奏により 琉球王朝は瓦葺きの立派な宮とし
 「宮古熊野三所大権現」の称号が贈らる

 大正十四年 豊見親二神を祀る町社創建
 昭和十五年 紀元2600年を期し、この両社合祀の県社建立を全島挙げて決議
 昭和十九年六月 遷座・奉祝祭(県社の内達)
 昭和二〇年 被弾、終戦
 昭和三一年 目黒盛豊見親が増祀さる
 昭和五十五年十一月 宮古神社復興工事竣工
 平成二十二年 平成の本格的造営竣工す
-案内板より



 赤瓦葺きの社殿


 拝殿

      
拝殿前の狛犬


    
   拝殿に掲げられる社号額とラオス産の千年木使用の本殿

        

 宮古熊野三所大権現鎮斎の地
天正十八年(1590)平良大首里大屋子(地頭職)平良(要宇か)が海難漂流 九死に一生を得 八年を経て帰る これ故国の神々のお陰と感謝し 琉球第一の宮・波上大権現の神々を勧請す以来島民の参拝絶えず この地の平安を得る
 慶長16年(1611年) 薩州検地の折 これを上奏し 琉球王朝は瓦葺の立派な宮とし「宮古熊野三所大権現」の称号を以てし この地に祀った宮古神社草創期の由来である
-案内板より




来島の報告と居住のお願いをして、社務所を訪ねましたが、
閉まっていましたので、御朱印は頂けませんでした。
また参拝にあがろうと思います。

















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