~西へ~(405) 73日目⑥ 福知山城Ⅱ | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

     
                    近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら

                        (小さい画像はクリックで拡大します)


京都府福知山市の横山丘陵の横山城を改修し築城された、
「福知山城(別名:臥龍城)」に登城しています。



外見復元された複合・連結式望楼型天守を見ながら天守内を散策。

     

豊磐井について
 本丸に残る井戸は「豊磐井(とよいわのい)」と呼ばれています。これは福知山藩主朽木氏初代種昌(たねまさ)の父である種綱(たねつな)の神号「豊磐種綱彦命」にちなんだものです。
 井戸の深さは50メートル(城郭本丸内の井戸としては日本一の深さ) 海抜は約43メートルですので、井戸底は由良川の河床よりも深く、海面下7メートルに達しています。
 この井戸が掘られたのは朽木時代になってからと思われますが、当時の井戸掘り技術の高さを示しています。 -案内板より


 
 豊磐井(とよいわのい)

    

 朝暉神社(あさひじんじゃ)
1669年(寛文9年)6月に入部した、福知山初代藩主である朽木稙昌(くつきたねまさ)が父・稙綱(たねつな)を藩祖として城中に祀ったことにはじまり、11代藩主・綱條(つなえだ)のときに一社を建立して朝暉神社と号しました。
廃藩により城外に移されましたが、1881年(明治14年)に町民らの要望によって天守台跡に再建されました。
さらに1986年(昭和61年)の天守再建にともなって、現在の位置に移築されました。
-案内板より




銅門番所(あかがねもんばんしょ)
 この建物は福知山城の銅門の脇(市役所の東)にあった番所で、城内の建築物として当時の面影をしのばせるものです。
 大正時代のはじめに天守台(小天守台)に移築され更に昭和五十九年天守閣再建に伴いこの場所に移築されたものです。 -案内板より



 銅門番所(現存・移築) 

    

外観復元された大天守は、郷土資料館となっておりました。

      

      


 最上階から見る「続櫓、小天守」と街並み





 埋納遺物
1986年(昭和61年)の天守再建に伴う送電線敷設工事時に偶然検出された埋納遺物で、現在の天守台の南、本丸中央部で出土した。この地点は絵図によると、本丸御殿が建っていたところで、検出層位から江戸時代以前の福知山城整地前に埋納された。出土物は以下の5件。
丹波壺 - 口径16.6 cm、高さ41.6 cm。茶褐色で一部緑色の自然釉が薄くかかっている。この壺の中に他の出土遺物が入っていた。
銅鏡 - 直径は9.43 cm、紐は亀形で、縁は垂直に立ちあがっている。一対の鳥と菊花をモチーフとした双雀菊花文鏡である。
竹筆 - 19本出土した。径0.7-0.9 cm、長さは15-23cmで使用の痕跡は確認できない。
小刀 - 錆びついており、詳細は不明。現存部分の長さ19.3 cm、刃部分の幅は2.6 cm。
銅銭 - 総数は約936枚。原型をとどめていない個体もあり、2-3枚程度の誤差を考慮する必要がある。銭種は40種類で、ばらばらに納められていた。鋳造年次の最も新しい銭は朝鮮通宝2枚である。
壺の内部には内底中央部に鏡面を上にして銅鏡1面が置かれ、竹筆19本と小刀1本が立てかけられ、最後に銅銭が納められていた。壺の内部に水が15cm程度溜まっていたが、竹筆は良好な状態で残っていた。『福知山城の歴史』は「遺物の組成、埋納状況からみても、いわゆる備蓄銭ではなく、何らかの祭祀的な色彩を強く感じるものであり、変形しているものの、地鎮、経塚、祈願などの目的で埋納された」と解説している。




                              つづく






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