寝屋川で起きてしまった殺人事件

 

 

夜の闇に潜む得体のしれない危険。


8月13日、中学一年生の男女二人が行方不明となり、一人の遺体が発見された。言いようのない事件が起こっている。

 

まだ少し前まで小学生だったような子供が、なぜそんな悲惨な殺され方をしなければならなかったのか。報道される二人の防犯カメラに映った映像をみると、確かに普通に考えれば、そんな時間に子供がうろうろしているからおかしいとか

、大人は思うのだろう。

 

 

だが、子供の世界からすれば、ほとんどの場合はひと夏の冒険で済んでいることもある。ワクワクも危険も恐怖も体験して、「疲れたね、家に帰ろう」となって、少しずつ大人になったりもする。


子供がほんのちょっと、大人の抑圧から逃れてみて、冒険したいと思う年頃というのがあるという前提を、大人は持っておかなければいけない。

 

 

そして、そんな時は、無事に済むことのほうがありがたいのだということも。


今の大人で、恐怖を味わったことがある人はどれくらいいるのだろうか。私は子供のころ、溺れてパニックになった人にしがみつかれて、頭から押さえつけられたことがある。

 

 

増水した川から、真夜中に撤収したこともある。知らない人にナイフを突き付けられたこともあるし、人に殴られたことも頭を割られて血まみれになったこともある。

生きているのは最初から奇跡のようなものなのだ。

 

 

何より、この子たちと同じ年齢で、夜中に家を抜け出して、夜な夜な街を歩き回って、大人になった気分を味わっていた。


そしてそういう事は、自分もしてきたので、当然子供にも起こることだと思っている。

 

 

だからある程度の年齢になると、自由には常に危険がついて回ると言う事を教えているし、正義感は身を滅ぼしかねないという汚い話もする。

 

いろいろな経験を重ねながら、最終的に自分で判断ができるようにするのが大人の役割。


子供たちはいずれ、自分で判断をして生きていかないといけないという前提がある。


ものごとのリスクを知った上で、本人が考えて選択した行動の結果なら納得するしかない。


知っていることを伝えなかった、教えることができなかったとなると後悔しか残らない。

そういうどうしようもない悔しさを私は知っている。


危機感を持たない身体は鈍い。


危険があるから家から出るなでは済まされない。大人はもっと想像力を働かせなければならない。