〜前書〜
娘がアラジール症候群であることは、親族と職場の一部の方しか知らない。
話すつもりはなく、もちろんSNS等でも公表するつもりはなかった。
ただ、娘の病気はとても稀な病気で、この病気に関する情報が非常に少なかったため、
娘がその病気の可能性があると知ったときは不安で不安で仕方なかった。
迷いに迷い、長い時間をかけ、肝臓移植を決断したこと、この決断が正しかったと思えた過程など、同じ病気をもつ親御さんの参考になればと思い、ここに記すことにした。
読んでいただくにあたり、ご留意いただきたいのは、娘の事例は、一例に過ぎないということ。
お世話になったお医者さんのうちの1人から、その病気に関するネット情報を鵜呑にしないよう言われた。
この病気は患者さんによって症状も重症度も違うのだ。
自身がその病気であることに気づかず普通に暮らしている人もいれば、手術が必要な人もいる。
〜本編〜
出産予定日の3週間前。
娘は少し小さめに産まれた。
その日は出産ラッシュで、まわりには赤ちゃんが沢山いたが、みんな娘より1000gほど大きかった。
私が出産した病院は出産の翌日には母子同室となるルールだった。
小さく産まれた娘は、母乳を飲む力が弱く、ミルクも少ししか飲めなかった。
産まれた後はみんな一時的に体重が減っていくものだが、小さく生まれたもので、このままでは2000g切ってしまう、、と焦った。
出産後何日目だったかは覚えていない。
赤ちゃんの黄疸検査は入院中毎日行われるが、ある日、検査に引っかかり、血液検査において娘のビリルビン値が高いという報告を受けた。
再度の検査でもやはり高く、光線療法を行うことになった。
娘は小児科病棟に移され、母子別室となった。
私は大部屋だったため、看護師さんが個室を用意しようかと気を遣ってくれた。
新生児黄疸はまあまあ低くない割合で起こることだから大丈夫と言われたが、、
コロナ禍で面会制限があり、私の母には電話で報告したが、『○○(私)は大丈夫?』と言われたときは涙が溢れた。
ただ、光線療法が効いたようで、娘は私と一緒には退院できないだろうと言われていたものの、同じ日に退院できることになった。
しかし、小児科の先生から、総ビリルビンは下がったが直接ビリルビン※が高いのが気になる、退院後2週間後に診察に来て欲しいと言われた。でもエコー検査の結果、胆道閉鎖症ではないと言われたので、安心した。
※ よくある新生児黄疸の場合は間接ビリルビンが高くなる。
まあ大丈夫だろうと思い過ごした2週間後。
血液検査の結果はやはり直接ビリルビンが高かった。
が、1か月健診まで様子をみることになった。
初めての育児に毎日四苦八苦しつつ、赤ちゃんの手足が細いことが気ににかかっていた。
また、ウンチの色※は毎回確認していたが、なんとなく白っぽい気はしていたけど、胆道閉鎖症ではないと言われたしなあと気にしなかった。
※ 母子手帳に便の色のチェックカードが挿入されており、色が白いと胆道閉鎖症などの病気が疑われる。
そして一か月検診。
やはり直接ビリルビンが高かった。
また、お医者さんの前で娘がたまたまウンチをし、それを見たお医者から、いつもこの色?と私に聞き、ハイ、と答えると、白いな。と言われギクっとした。
たまたま家から近い総合病院に小児肝臓を専門とする診療科があり、後日、そこで診てもらうことになった。
その当日。
主人と私の母にも付き添ってもらった。
診察予約はしていたものの、混雑しており、予約時間からかなり押しての診察となった。
今日の今日ですぐ何かがわかるはずない、、もしかしたら入院かも、となんとなくは予感していた。
そして診察の順番が回ってきて、肝臓の構造についてなんだか難しい話を丁寧に話してくれた。
そして、しっかり検査をする必要があり、即日入院と言われた。
予感はしていたものの、やはりショックだった。
待合室に出て、泣いた。
その日のうちに沢山検査をした。
バタバタだった。
コロナ渦で面会のために病室に入れるのは1人のみ。
主人と母には、取り急ぎの着替えを取りに一度帰ってもらった。
生後1ヶ月での入院。
まだ母の私のことを認識していないので、この子にとってこの時の入院は精神的には大した辛くなかったのではないかな、と思う。
娘が病院のベッドで眠りにつくのを見守り、この日は面会終了時間より早く帰ることにした。
父が車で迎えにきてくれた。
母が夕飯を用意してくれていた。
多分疲れていたけど、心は無だった。
翌日から毎日面会に行った。
入院先が自転車で通える距離だったのが本当に有難かった。
相変わらずの沢山の検査。
黄疸の原因となる病気は数多あり、色んな可能性を視野に入れて検査するとのことだった。
訳わからず色んな書類にサインした。
入院後、数日して担当医から話があった。
現時点で胆道閉鎖症の可能性が100%否定できていない、もし胆道閉鎖であればすぐに手術が必要だが、胆道閉鎖かどうか調べるのには肝生検が必要で、うちの病院ではできないから転院を検討しているが話を進めていいか?
胆道閉鎖の可能性がまだあったのか、、
もちろん、お願いした。
その日のうちに転院が決まり、救急車で移動することになった。
娘を私が抱き、私が救急車の担架に固定された。
人生初の救急車。
揺れがすごかった。
転院先ですぐに検査が始まった。
なんという検査名だったかは覚えていない。
処置室から聞こえる娘の泣き叫ぶ声が辛かった。
処置を終え、出てきた娘をみて泣いた。
鼻から腸まで管を通して、顔はテープまみれだった。
なんて痛々しい姿なんだろう
検査が終わる翌日まで絶食。
こんなに小さいのにお腹減ってもミルクを飲めないなんて。
この日、処置が終わった頃には真っ暗で、また父が車で迎えにきてくれた。
転院先は家から電車とバスで1時間半かかった。毎日面会に行ったが,週に3日、帰路は父が車で迎えにきてくれたのには本当に助かった。
転院先でも様々な検査が行われた。
転院先の病院で遺伝子性の病気の可能性が浮き上がっていた。
そのときは確かその病名までは教えてもらえなかったが、ネット検索ですぐわかった。
アラジール症候群。
アラジールには特徴的な症状があり、主症状は胆汁うっ滞。
そして、特徴的な顔つき、椎骨、心疾患、目。
胆汁うっ滞のほか2つ症状が該当すれば、アラジールの可能性が高くなる。
ネットでアラジールの子の顔写真をみたとき、えっ、、と思ったときの感覚は今でも覚えている。
主人は違うと思ったらしいが、私は直感的に顔の特徴が似てると思った。
胆道閉鎖かアラジール。
どっちに診断されても嫌だった。
転院して数日後、胆管造影と肝生検が行われた。もし胆道閉鎖だとわかれば、そのまま手術するとのことだったが、結果、胆道閉鎖ではないことがわかった。
となれば、、
その後の検査で、軽度の肺動脈狭窄、目の症状、顔つきから、アラジールの可能性が高いことがわかった。
その後、転院前の病院に戻れることになった。
アラジールかどうか調べる遺伝子検査はすでに行われていて、結果が出るのに数ヶ月かかるとのことであった。
元の病院で、私と主人の遺伝子検査も行いことになった(もちろん、私たち夫婦の同意のもとで。)。
恐らくアラジールであろうという前提だが、親がアラジールだと、50%の確率でアラジールの子が生まれるらしい。
最初の病院に戻り、数日して退院できることになった。
治療としてやることはなく、通院して経過をみることになった。
娘は栄養を吸収しづらい体であったため、入院中からMCTミルクという特殊ミルクを飲ませていて、担当医からは母乳は寝る前だけ、あとはMCTを飲ますよう指示された。
ただ、自宅で生活するに当たり、このミルクを無償で提供いただけることになったのは有り難かった。
余談だが、このミルク、普通に買うと恐らく健康な赤ちゃんが飲むミルクの2、3倍の値段がするのだが、アラジールなど一定の病気の子供には、病院を経由して社会福祉法人から無償提供を受けることができるらしい(ネット情報)。
話を戻し、娘は2ヵ月に1回通院する以外は普通に生活できた。
ミルクのおかげで、ガリガリだった手足がぷくぷくしてきた(後から聞いたが、入院した当初、医師はなんてガリガリな赤ちゃんなんだろうと思ったらしい。)
ただ、本人しかわからないが、黄疸は全身が痒いらしい。
耳や足を掻くことがよくあり、耳から血が滲むことがあった。
また、通院における毎度の血液検査の結果に落ち込んだ。ちょっと改善したかと思うと次の通院時には悪化していた。
そして、数ヶ月後。
娘は遺伝子検査の結果によりアラジール症候群であることが確定した。
もうその頃には、きっとそうだろうという覚悟ができていたから、大した驚かなかった。
私たち夫婦は陰性だった。
前書で書いたが、アラジールは症状や重症度が患者によって様々で、娘の場合は肺動脈狭窄は軽く経過観察で大丈夫とのことだったが、問題は胆汁うっ滞だった。
つまり肝臓が悪い。
アラジールは重症の場合、肝臓移植が必要になるが、まだこの時点ではそこまで悪いと判断されなかった。
というよりは、判断できなかったという方が正確だと思う。結果論だが。
通院先の担当医からは、アラジールは1歳過ぎたあたりに胆汁うっ滞が改善される子もいると言われており、その可能性に賭けた。
できれば移植手術は避けたかった。
1歳になる歳の4月、娘は保育園に入った。
私も仕事に復帰した。
持病があるかどうかに関わらず、感染症が流行れば子供はほぼ罹患してしまうのは覚悟していたが、すぐにその時は訪れた。
GW前だった。
嫌な感じの咳をするな、と思った翌日熱を上げた。
近所の小児科で、RSウィルスと診断された。
高熱、鼻づまり、咳でとても苦しそうだった。
GWはゆったりと過ごし、RSの症状は改善されたのだが、なんとなく黄疸が強くなったような気がした。主人もそう思ったらしい。
再度近所の小児科で診察を受けた際、黄疸が強くなった気がすると伝えた。
念のため、その日のうちにいつもの通院先で診てもらうことになった。
その日は、いつもの担当医ではなかった。
血液検査の結果、ビリルビン値が悪化しており、即入院となった。
また、診察のために私が娘の頭を触ったところ、ペコっと凹む個所があり、念のため検査してもらったところ、なんと骨折していた。後になって原因が判明したが、この時はアラジールのせいで骨がもろい可能性が浮かび上がっていた。
入院して数日後、いつもの担当医から話があった。
肝臓移植を検討した方がいいかもしれない、とのことであった。
アラジールのせいで骨折しやすいのかもしれない、移植すればその症状はなくなる。
自分の知り合いで、他の病院に肝臓移植の名医がいるから、話を聞いてみないか。
ほんの数日後に頭蓋骨骨折した理由が判明したが、その名医に娘を診てもらうことにした。
黄疸は大して良くなってはいなかったが、骨折の原因はわかったので、退院した。
数日後、その名医の診察を受けた。
こちらとしては肝臓移植について説明を受けるくらいのつもりでいたが、その名医からはアラジールについて丁寧に説明していただいた。
恐らく何人ものアラジールの子の移植を経験されているのだと思う。
そして、この子を失うということを避けるためには移植が必要とのことであった。
主人も私も、頭やらなんやらをガツーンとやられた気分だった。
この子を失う?
死ぬ可能性があるということ?
移植の方法は2つ。
生体肝移植又は脳死肝移植。
どちらを選択するにせよ、娘は検査入院が必要だった。
すぐ入院の日程調整をお願いした。
移植に関する事務的な手続きなどは、今後大変お世話になる移植コーディネーターという方から説明を受けた。
脳死移植を受けるためには、日本臓器移植ネットワークへの登録が必要であり、登録を受ける旨伝えた。
また生体肝移植に踏み切る場合、私たち夫婦のどちらがドナーになるかは以前から決めており、主人がドナーになる旨伝え、その日から主人は禁酒とダイエットが始まった。
大酒飲みの主人だったが、娘の命が関わるのだからこの決意は固かった。
臓器提供にあたっては、BMIが21以下になるのがベターらしい。
検査入院の日程は後日連絡を受けることになり、帰路についた。
主人も私も、ずっしりと体が重かった。
まさか娘が死ぬ可能性があるなんて微塵も思っていなかった。
移植するしかないのだろうか。
検査入院の日程はすぐに決まり、1週間ほど入院することになった。
血液検査では、先日の入院時よりはビリルビン値は下がっていたが、やはり高かった。
ただ、娘の場合、軽度の肺動脈狭窄はあるものの、肝臓以外に重い症状はなかったのが不幸中の幸だった。
入院中、移植コーディネーターさんから生体肝移植に踏み切る場合、いつ頃がいいかと聞かれた。
瞬間的に涙が溢れてしまった。
わかりません。
と答えた。
できれば気持ちとしては移植手術は避けたい、でも娘に手術が必要ならする。
逆にいつがいいのか教えてほしい。
というようなことを答えた。
少し話はズレるが、この検査入院中に移植コーディネーターの方からの勧めで、病院のソーシャルワーカーさんから娘が受けられる可能性がある公的制度について説明を受けた。
小児医療費助成により医療費負担がない時期だったのでまだいいかと思っていたが、小児慢性特定疾病医療費助成の申請、限度額適用認定証の申請を行うことにした。
それまでの私の勉強不足を後悔したが、限度額適用認定証があると入院中の食事料金が半額になる。
小児慢性も、居住地以外の病院で受診するに当たっては、取得しておいた方が高額出費は避けられる(あとで小児医療費助成で還付できるにせよ)。
退院後、移植ネットワークへの登録手続を行った。
もし脳死移植を受けられることになった場合には、病院から電話が来るということだった。
移植ネットワークでは、登録者の状態等により、移植の優先順位が付けられる。
ドナーさんが現れたときには、その優先順位が高い人に、病院を通じて連絡がなされ、移植の意思確認が行われる。
退院後はまた普通の生活に戻れた。
通院先はいつもの病院(以下『A病院』とします。)で内科的に診てもらい、同じペースで移植の専門医がいる病院(以下『B病院』とします。)で診てもらうことになった。
ほぼ毎月、どちらかの病院で診察を受けることになった。
A病院での診察時、B病院から手術が必要と言われた、本当に必要なら決断するが、まだ症状が改善する見込みがあるのであれば手術は避けたいと相談した。
A病院の担当医は、ビリルビン値は高いが娘の場合はアラジールの症状として他に対処すべきものがなく、黄疸のせいて痒くて日常生活に支障がでることがなければ、移植はまだいいのではないか、という判断だった。
私たち夫婦の意向は、B病院の担当医に伝えてくださるとのことだった。
B病院の診察でも、すぐ移植が必要な状態ではなく、経過観察で良いと判断いただいた。
そのほんの1ヶ月くらい後だったたと思う。
B病院から電話があった。
脳死肝移植を受けられることになった、手術するかすぐ検討してほしい。
まさかそんなすぐに娘の順番が回ってくることを想定しておらず、また、移植はまだしなくて大丈夫だからと安心していた頃の電話だったため、驚いて頭が回らなかった。
すぐに決断しなければいけなかった。
30分の猶予をいただき、一旦電話を切った。
そして主人に相談した。
主人も驚いた。
2人でどうしよう、、と悩んだ。
貴重なチャンスであることには変わりない。
今回お断りしたとして、移植が必要になったときにまた娘に順番が回ってくるかわからない。悩んだ結果、A病院の担当医に見解を聞いてみようと考えた。
B病院に電話し、A病院の担当医の判断に任せたいと伝えたところ、既に電話したが繋がらなかったと返された。
どうしよう、、どうしよう、、
と焦っていたところ、やっとA病院の担当医と連絡を取ることができ、こちらの意向を伝えたところ、まだ移植は見送っていいのではないか、との回答だった。
そして、私たち夫婦もその判断に同意した。
脳死移植は登録した人の状態により優先度の順位付けがされ、もしドナーの方が現れた場合は、その順位で移植を受けるか連絡がくる。
娘に連絡がくるのはずっと先の話だと思っていたので、気が動転した。
貴重な機会ではあるものの、移植しないでもその時点では通常の生活ができていて(もしかしたら生まれながらに黄疸からくる全身のかゆみと戦っていたのかもしれないが)、手術しないで済むのなら、、という葛藤があった。
その後、A病院の定期診察の際、再度移植のオファーがあった際はA病院担当医にご相談させていただきたいとお願いした。
ただ、B病院診察の際、
娘のビリルビン値で移植したとして、疑問に思う医者はいない、
ネットワークにおいて娘の移植優先順位は高いということ、またすぐ連絡があると思うから、そのときどうするか考えておいてくれ、と言われた。
B病院の診察の後は毎度気が重かった。
主人と話し合い、1歳を待ってビリルビン値が下がってくれる可能性に賭けようということにした。
そんな想いと裏腹に、A病院での検査結果に一喜一憂することが続き、1歳を過ぎてもビリルビン値は下がらなかった。
そして、娘の症状として、もう一つ心配になってきたのが高脂血症だった。
コレステロール値が異常に高い。
具体的には正常な人の5倍近かった。
その結果、手のひらや体の関節などにボコボコとしたものが見え始めた。
A病院では、正式名称は忘れたがナントカたんぱくで、もしかしたらこの症状は改善されるかもしれないとのことだった。
しかし、B病院では、将来的に血管が詰まる可能性があること、手のひらなどのボコボコは酷くなると歩けなくなる、との話があった。
そして心臓の血管が詰まれば、死につながる。
B病院の診察では、毎回精神的ダメージを受けた。
移植を検討した方が良いかもしれない。
主人も私も同じ考えだった。
2回目の脳死移植のオファーがあったとき、A病院の担当医も移植をした方がいいのか正直わからない、との判断だった。
その後の定期診察でも、移植した方がいいのかわからないとはっきり言われてしまった。
そして、主人と相談し、
次のA病院での血液検査でビリルビン値が下がらなれば、次に脳死移植のオファーがあった際に手術を受けることに決めた。
血液検査を受ける前に3回目のオファーがあったが、見送らせていただいた。
もう覚悟はしていたが、血液検査の結果はやはり良くなかった。
A病院の担当医に、脳死移植を受ける旨、伝えた。賛成してもらえた。
私たちの意向をB病院に伝えてくれるとのことだった。
B病院での診察でも、あらためて私たちの意向を伝えた。
その後2週間も経っていないある日の夕方、会社にいた私のスマホにB病院から連絡がきた。
瞬間的に、"ついにきた..."と思った。
移植のオファーだった。
よろしくお願いします。
と、手術を受ける旨を伝えた。
娘の病気、状況は予め上司に事細かに伝えていたため、上司に手術が決まった旨の報告をしてからの職場の対応はとてもスムーズで助かった。
むしろ動揺して泣き始めた私を落ちつかせてくれた。
主人にも連絡した。
会社を出た後に再度B病院から、今後のスケジュールについて連絡があった。
翌日に入院及び術前検査、翌々日に手術とのことだった。
翌日、朝早くにB病院に向かった。
入院前のPCRの結果を待つ間、無邪気にはしゃぐ娘をみて、胸が痛かった。
術前検査を進めつつ、担当医から手術の説明があった。
今回、娘には血液型が異なる方から肝臓を提供していただく。
2歳までは、血液型が異なる移植が可能。
ただし、念のため抗体を抑える点滴をする。
手術時間は約10時間。
その後ICUに入り、経過が良ければ1週間程度で一般病棟へ。
その後も経過次第だが1か月程度で退院。
腹水がおさまらないなどで1年入院の例あり。
一通りの術前検査を終えて、入院手続きも終わったところで、コロナ対策の面会制限により夕方早い時間に親は帰らなければならなかった。
何かを察して号泣する娘を置いて、後髪引かれる思いで病室を後にした。
その日は全く眠れなかった。
翌日、面会可能時間にすぐ娘に会いに行った。
寝ていた娘には、点滴のせいで全身浮腫み、痛々しかった。
私に気づくと、ママ!とすぐ立ち上がったので、抱っこした。
手術中は両親2人とも待機室に居られるが、病室の面会は1人ずつしかできなかったので、手術開始前に主人が病院に到着して2人で娘を見送ることにしていた。
予定よりはやく手術が始まることになり、主人が間に合うかヒヤヒヤした。
手術室には私が娘を抱っこして向かった。
ギリギリ主人が間に合い、笑顔で娘を見送ろうとしたが、手術着をきた看護師さんたちに恐怖を感じたのであろう、娘は私にしがみつき大号泣した。
笑顔でなんかいられなかった。
私は声を出して泣いてしまった。
無理矢理看護師さんに娘を託し手術に送り出した。
私を呼び泣き叫ぶ娘の声が聞こえたが、娘の方を見られなかった。
主人を見ると、主人もそっと泣いていた。
これで良かったのだろうか。
手術しなくても、普通に暮らせていた。
まだ迷いがあった。
移植コーディネーターの方が来てくれ、待機室に案内された。
手術の終了見込みは夜中2時。
後ほど娘の取り出した肝臓を見ることができるがどうするか聞かれ、これまで頑張ってくれた肝臓を見させてもらうことにした。
待機室では、落ち着きを取り戻し、手術終了を待った。
手術の最中、娘から取り出した肝臓を見せてもらった。
健康な肝臓よりくすんだ色らしく、アラジールの典型的な肝臓と言われた。
その後、無事手術は終わった。
PICUに娘に会いに行った。
たくさんの管がついていたものの、穏やかな顔で眠っている娘をみて安心した。
ちょうど始発が動き出す時間になり、私たちは一旦帰路についた。
少し休んで、面会にいった。
眠り続ける娘の顔の色が少し白くなった気がした。
酸素のチューブが外されたが、娘は眠り続けていた。
コロナ禍により面会時間はほんの数時間だった。
後日、娘は目を覚ましたが、表情がない日が続いた。
精神的なダメージなのか、呼びかけても無反応だった。
数日してやっと笑顔を見せてくれたときは本当に安心した。
移植コーディネーターの方曰く、恐らく体が辛かったのだろうとのことだったが。
手術後、黄疸により黄色かった娘の目の白目部分が真っ白になり、数日かけてどんどん娘の体は白くなっていった。
手足のボコボコも消えていった。
ただ、拒絶反応があり、ICUには結局3週間いた。拒絶反応と聞いた時はびっくりしたが、薬での治療で治った。
一般病棟に移動できたが、なかなか腹水が減らなかったり、全身が浮腫んだりと、痛々しかった。
腹水を外に出すため、お腹きら3本のチューブが出ており、定期的に看護師さんがケアするのであるが、それが痛いらしくこれも可哀想だった。
それでもなんとか回復し、立ち上がるリハビリができるようになった。
一か月寝たきりだったため、足はとても細くなっていた。
それでも娘は歩けるのが嬉しかったようだ。
どんどん娘は元気になった。
ごはんが来ると喜ぶ姿が可愛かった。
薬も好きで、看護師さんが持ってきてくれると、おくすり!と喜んでいた。
薬は生後1か月半頃から複数の薬を毎日飲んでいたが、移植により免疫抑制剤を毎日一生飲み続けることになる。術後しばらくは他の薬も数種類飲ませるが、
退院が見えてきた頃、この免疫抑制剤を飲ませる練習と、胆管チューブをケアする練習があった。
入院して一か月半。
退院できることになった。
胆管からチューブを体の外に出している状態であるため、チューブは退院後一か月半ほどで外すが、それまでは自宅ケアとなる。
また、色々な感染症にかかりやすくなるから、生活するにおいて色々と気をつけなければならない。
一緒に暮らしていたワンちゃんは、一時的に実家に預かってもらった。
ただ、きっと体調を崩すことが多いのだろうと覚悟していたが、一度40℃を超える発熱があったり、微熱が上がったりはあったものの順調に回復した。
退院して一か月半。
胆管チューブの除去のための入院を経て、娘はまた保育園に通えるまで回復した。
初日こそ涙涙の登園だったが、先生からお友達が喜んで迎えてくれたと聞き嬉しかった。
実家に預かってもらっていたワンちゃんも戻ってきて、また家族みんなでの生活ができるようになった。
娘は元気になった。
身長の伸びが早くなった。
体力がどんどんついていった。
移植前は成長曲線内にいたものの、いずれ枠外になると言われていた。
また、首座りや寝返り、歩き始めは、これも一般的なスピードより遅めだったと思う。
実は娘はずり這いもハイハイもしなかった。
一歳半で一人歩きできるようになった。
恐らくだが、移植前は身体が栄養を吸収しづらかったこともあり、筋力が弱かったのではないかと思っている。
保育園の運動会で走る娘を見て、感動した。
先生たちからも沢山ほめられた。
娘の担任からは移植前は他の子に比べ体力がないと感じていたが、移植後はだいぶ力強くなったと言ってもらえた。
退院後はB病院に二週間に一回通院していたが、徐々に通院間隔が空いていっている。
ただ、術後の順調ではあるものの、血液検査に引っかかり短期で入院することもあった。
また、肝臓は健康になったものの、娘がアラジール症候群であることには変わらない。
この病気により肝臓移植をしたことで、娘は障害者1級の認定を受けた。
A病院でも半年に一回肝臓を診てもらい、一年に一回心臓も診てもらう形で通院している。
娘から取り出した肝臓はA病院でも検査したらしく、A病院の担当医から、娘の肝臓には胆管がほとんどなく、成長したとしても胆汁うっ滞が治る可能性はなかったと言われた。
複雑な気持ちだった。
もっと早く移植を決断できていたら、精神面で辛い思いをせず済んだかもしれない。
体の痒みと早くさよならできたかもしれない。
もっと早く活発に動き回れたかもしれない。
今でも娘は眠りながら泣くことがあるのは、
辛かったときのことを思い出してしまっているのではないかと思っている。
決断が遅くなってしまったことは、未だに後悔してしまう。
また、現在、普通の生活はできているが、娘はこの先、病気のせいで辛い思いをすることがあるかと思っている。
少なくとも、将来、娘が子供を授かった時、その子供がアラジールである可能性が50%あるのだ。
先々のことを考えれば、不安は尽きない。
ただ、今、娘はとても元気だ。
活発で、優しい。
娘の笑顔、笑い声は本当に癒される。
この先、まだまだ困難に直面するかもしれないが、一つずつ乗り越えよう、そう思っている。
以上で、記録を終わります。
なお、掲載後に誤りや追加したいことが生じたら都度編集していくつもりです。
最後に、
娘に肝臓を提供してくださったドナーの方に感謝するとともにご冥福をお祈りします。
また、ドナーのご家族様のご健康を願っています。