2026.1.31-2.1
香川・徳島 御朱印めぐり

続いてお参りしたのは忌部神社さまです
⛩️忌部神社
📍徳島県徳島市二軒屋町2丁目48
何度も徳島県で御朱印めぐりしてますが、
今回初めてお参りした神社です
ホトカミを見ていて発見したのですが
何度も見ているのに気が付かずで

Instagramで情報出して下さっていて、
今までなんで気が付かなかったんだろう

今回気がついてお参りできてよかったです
王子神社さまから車で10分ほど
眉山の中腹にあって少し細い道もありますが、
大きな看板が出ていて迷わず着けました
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駐車場スペースに車を停めて、
正面からお参りスタート

マフラーを巻いた狛犬さま

とてもよく似合ってますね
鳥居をくぐると、
右手に大きな松の木があります

松の木といえば、
クネクネ曲がってるイメージでしたが…
真っ直ぐに伸びいていてかっこいいですね
大きな松ぼっくりがたくさん落ちてました
初めてみる大きさでした
御拝殿です
忌部(いんべ)神社
御祭神
天日鷲命(あめのひわしのみこと)
御由緒
阿波忌部とは、古代の宮中祭祀を担当した忌部氏に従属した集団です。
忌部氏の神話・伝承をまとめた『古語拾遺』や平安時代の法令書『延喜式』などによれば、天皇の即位儀礼である大嘗祭に際して、麁服という布を献上しました。
また、2004年10月に吉野川市が誕生したことによって消滅した「麻植郡」(古代・中世は麻殖郡と表記)という郡名も、阿波忌部が麻を栽培したことに由来するという神話があります(『古語拾遺』)。
このような古代阿波忌部の紐帯だったのが、麻植郡にあった忌部神社でした。
『延喜式』神名帳に登載された、いわゆる式内社で、その中でも阿波に三社あった大社のひとつでした。
そうした位置づけからすれば、阿波国ではとくに重要な神社だったはずですが、時代が降るうちに所在が分からなくなり、複数の神社が古代以来の忌部神社の系譜を主張するようになりました。
そのため、近世から近代にかけて、所在地論争が続きます。
所在不明となったのは、地震による崩落のためとか、戦国期に土佐から侵攻した長宗我部氏に焼かれたからなどと伝えられています。
現在の場所に忌部神社が置かれた直接のきっかけは、明治初年の所在地論争です。
1871年(明治4)、全国の神社を対象とした社格制度が発足した際、古代の式内社である忌部神社が、所在不明のまま、神祇官所管の国幣中社に列格されます。
そこで、神社の特定が急がれました。
ここで重要な役割を果たしたのが、小杉榲邨(1834~1910)でした。
彼は、近世末から近代にかけて活躍した国学者として著名ですが、その考証により、1874年(明治7)麻植郡山崎村(吉野川市山川町)の忌部神社が、式内社の系譜を引くものと判断されました。
これに対し、美馬郡西端山(つるぎ町貞光)の五所神社を、古代の式内社である忌部神社に比定する見解が出され、激しい争いとなりました。
本来は麻植郡にあった忌部神社の系譜を、美馬郡の神社に見いだそうとするのは奇妙なことですが、すでに『阿陽記』など、近世に民間で流布した地誌では、忌部神社がある地域はもとは麻植郡で、後に美馬郡になったとされ、美馬郡内にある阿波忌部の伝承などが挙げられています。
西端山側の主張には、そうしたものが底流にあったのです。
そして、小杉の考証は却下され、1881年(明治14)、五所神社が忌部神社と決定されました。
このように、所在比定が難航したことから、1885年(明治18)には現在地に社地が求められ、1887年(明治20)に遷座祭を行って国幣中社忌部神社が新設されるに至りました。
あわせて、五所神社は新しい忌部神社の摂社に位置づけられました。
この決定については、異論はなかったようです。
ごく簡単に述べてきましたが、忌部神社論争の詳細については、まだ不明な点が多くあります。
地域史研究のあり方や地域意識の推移を考える手がかりとして、追究が望まれる課題でもあります。
徳島市立博物館ニュースより
御由緒を調べていると、
とても複雑な経緯がありました
小説や映画になりそうなドラマを感じました
そして、忌部神社さまでいただいた御朱印はこちらです
↑1月限定御朱印
通常御朱印も直書きしていただけますよ

写真は相方さんがいただいたものです
とても優しい巫女さんにご対応いただき、
明日(2月1日)から御朱印のデザインが変わるとお聞きしました
翌日もお参りさせていただいたので、
後日また記録したいと思います







