Feign sleep
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夢の中へ

もうちょっとしたら、あたたかい春がやってきますねぇ。
今年の冬もとてもさむかったですけど、冬眠せずによくがんばりました。
寒い朝に目がさめて、あったかいふとんから出なくてはならないとおもったときのあの絶望感。

このまま、あったかいふとんでもういちどねむることができたなら、なんてすばらしいんだろう・・・ってなんどもおもいました。


もういちどねたいなぁ~、あの夢のつづきがみたいなぁ~っておもうんですけど、
ふと、おもうんです。

ほんとに今ぼくは目がさめているのか?
まだ夢のなかなんじゃないのか?
「夢をみていた」という夢をみているんじゃないのか?
っておもうんです。


だって、起きているという証拠がないんです。
起きている証拠ってなんですかね。


痛みとか、触覚とかの感覚?
夢みてるときも夢のなかでは感じてるんじゃないかと。


喜怒哀楽の感情? 
夢みてるときも夢のなかでは喜怒哀楽してるんじゃないかと。


夢にしては長すぎる?
はんだんする境界線はどこでしょう。


というわけで、証拠がみつからないんです。


夢のなかでは、「あ、これは今夢のなかにいるんだな」なんてあんまりおもいません。
夢をみているときは、現実だとおもってみているんじゃないでしょうか。
目がさめたときに、はじめて夢だったと気づくんです。
そして、夢のなかで夢をみないともかぎりませんよね。


とすると、今ぼくは起きているのか、夢のなかなのかがわからないんです。
ぼくのまわりの人なんて、ほんとうはだれも存在しないのかもしれない。
ぼくが知っていることだって、ぜんぶ自分がかんがえだしたことかもしれない。
もしかしたら、ぼくたち人間は、どこかのベッドに横並びにねさせられてて、
へんな装置をあたまにつけられて夢をみさせられているのかもしれない。

ぜんぶ、夢のなかのできごとなのかもしれない。


いつか、ながーーーーい夢からさめて、ぱっと起きる日がくるのかもしれない。
そう、「死ぬ」=「目がさめる」 なのかもしれません。


死んで目がさめたとき、いったいそこにはなにがあるんでしょう。


はたしてそれはわかりませんが、ただ、
この夢は、ずっとさめなければいいのに。と思うのです。

鏡よ鏡

世界で一番美しいのはだぁーあれ??
お嬢さま、それはね・・・


このまえ電車にのっていまして、なにを見るともなく窓にうつる自分の後ろの光景を見ていたんです。


そのときふとおもいました。
この窓には、ほんとうは何がうつっているのか、と。

ぼくの正面の窓には、もちろんぼくがうつっています。
だけど、ぼくの右の人がぼくの正面の窓を見たら、ぼくの左側の光景がうつっているはずなんです。
ぼくの左の人が見たら、その反対の光景が。

3人とも同じところを見ているはずなのに、なんで見えてるものが違うのか?
おい窓よ、おまえはそこに何をうつしているんだ!?
世の中で、真実はひとつのはずでは!?
とおもったわけです。


そして、あってるのかどうなのかはぜんぜん分からないんですが、
自分の結論としては、結局はなにもうつっていないんじゃないか、という結論に達したんです。


くわしいことはくわしい先生にまかせるとして、あそこにはなにもうつっていない。
窓はただ、光をはね返しているだけ。対象物の情報が入った光を、ぼくの目のなかの映像をうつす場所(名前なんだっけ?)に反射しているだけ、はね返しているだけなんだと。
僕の右の人の目には、ぼくの左側の光景が入った光をはね返して送っているだけ。
はね返しているだけだから、テレビとかみたいに、実際に自分で何かをうつしているわけではないんじゃないか、という結論に達しました。
だから見る人によって見える光景が違うんです。
しょせん真実なんて・・・とおもってしまうわけですが、窓がそうならもちろん鏡もいっしょですね。


だとすると、鏡よ鏡よ鏡さん、世界で一番・・・なんて鏡にきいてみたって、鏡は自分のとこに来たものをなにも見ずにはね返すだけの単純な作業しかしてませんから、世の中のものなんかなんも見ていないし、もしこたえたとしても適当な返事なわけです。
そんなやつにきいたってどーしようもないですね。


じゃあだれにきけばいいのかって? 
ほんとにちゃんと映像をうつしているところ、自分の目にきけばいいんです。

罪を憎んで人を憎まず

こんなかんがえ方ができる仏のようなひとっているんでしょうか。
ぼくのまわりでは見たことありませんけどね。(はなしをしてないだけかもしれないけど)
罪をおかしたやつは許せん! ウザいやつは許せん! あたりまえだ!
ってのが多いですよね。


でも、おもうんです。
たとえば、自分が憎いとおもうひとを簡単に殺してしまうひとと、殺すことはないだろうっておもう自分の違いってなんでしょう。

忍耐力のつよさ? 他人の身に立つ気持ち? 常識の判断力?
まぁなんでもいいんですけど、じゃあその差はどこからきたんでしょう。
自分の精神鍛練の努力? 教育?

またこれもなんでもいいんですけど、もし自分の精神鍛練の努力だとしたら、努力しようとおもうかおもわないかの差はどこからきたんでしょう。
たまたま偶然なんじゃないんでしょうか。

もしほかに理由があるとしたら、その理由の差はどこからきたんでしょう。
その理由がたまたま偶然以外の理由であった場合、その理由の差はどこからきたんでしょう。


教育の差だとしたら?
その教育を自分の意思で受けようとおもった?
おもったとしたら、おもうかおもわないかの差はどこからきたんでしょう?
親の意思?
では親がおもうかおもわないかの差はどこからきたんでしょう?


・・・・とたどっていくと、すべては「偶然」の結果にすぎないとおもうんです。
偶然、自分/他人の脳がそういう風にかんがえるようにできていた(なった)だけ。
一歩まちがえれば、自分もおなじように殺してしまう脳を持たされていたかもしれないんです。
自分も、殺人をおかして快楽を得るような脳を持たされていたかもしれないんです。


そうかんがえると、罪を憎んで人を憎まずというのも分かるような気がするんです。
罪はよくない。人に迷惑をかける。だから、その起こってしまった罪は憎くてもしょうがない。
だけどそれをおこしてしまった人は、偶然そういう脳を持たされただけだから、罪をおこしたのはその人のせいではないんです。その人を憎むのは間違っている。
人を憎むんじゃなくて、起こってしまった事柄だけを憎みましょう。といった感じなんじゃないでしょうか。


そういうかんがえでまわりを見てみると、
電車で床にすわっている高校生とか、人込みで歩きたばこしてる人とかがかわいそうに見えてきます。他人にウザがられる行動をとってしまう脳を持たされてしまっているんだなぁ、と。ウザがられるのって、良い気持ちはしないんだろうなぁ、と。
まぁそういうぼくも日々そうとうウザがられてるんでしょうけど。。。


・・・と、書いてきましたけど、人の気持ちは理屈じゃありません。
そんなこといくらかんがえたって、ウザいやつはウザい。憎いやつは憎い。
罪だけ憎んだって、ぜんぜん腹の虫はおさまりません。
ぼくは。罪だけじゃなく、ばっちり人まで憎んでます。

そうおもってしまう脳を、偶然持ってしまっているだけなんですけどね。

にんじんだいきらい

ぼくはにんじんがだいきらいです。

というわけではなく、ちょっと苦手なくらいです。
ただし、ここまで克服するのには結構時間がかかってまして、自分の意思で食べようと思うようになったのは何年か前のことです。
こどもの頃はきらいでしたね。あの微妙に変な甘みはなんなんでしょう。
どーせ甘いんだったら、ケーキみたいな甘さにしてくれれば良いのに。
あの甘みだけはどうしても受け入れられませんでした。


みなさん覚えていますかね。ちょっと前に、903って飲み物が発売されましたよね。
クエン酸が摂取できるというのがウリみたいで、商品名もそれにかけてあるんですよね。
で、そのときにちょっと聞いたのが、体がクエン酸を要求している人が飲むと、おいしい。
逆にクエン酸が不要な人が飲むと、すっぱく感じる。とかいうはなし。
このはなしを聞くと、人間のからだってうまくできてるんだなぁーって思いました。


さぁそれを踏まえてにんじんですよ。にんじん、栄養満点じゃないですか。なんの栄養があるのかはここではあえて伏せておきますけど、間違いなく人間のからだはにんじんを要求しているはず。
しかも、こどもなんてこれからたくさん成長しなくちゃならないんですから、大人以上ににんじんを要求してるはずなんですよ。
それなのに、まずい。おそらく、にんじん好きのこどもよりもきらいなこどものほうが多いんじゃないんですかね。
でもそれっておかしいと思いませんか? ぜんぜんうまくできてないじゃないですか。なんでからだに悪いマク○ナルドのほうがおいしく感じるんですか。こどものころは成長するのに野菜よりも肉とか油のほうが必要だからですか?たとえそうだとしてもわざわざまずくする必要はないですよねー。


だけどぼくは信じます。この仕組みも本当は正しいものだと。そして、もし本当にそうだと仮定したばあい、わざと栄養のあるにんじんをまずく感じさせて、からだに悪いマクドナル○をおいしく感じさせてるってことです。
ということは、にんじんがきらいなこどもというのは、あまり栄養をとってはいけない(早死にしなくてはならない)こどもだってことになるはずなんです。
しかし現代を見てみれば、親はこどもににんじんを強要し、こどもも結果的にまずいにんじんを食べてしまってしっかり栄養をとっちゃっているわけで、本来よりも長生きしてしまっているはずなんです。

そう考えると、現代の人口は、本来あるべき数よりもかなり多すぎるってことなんじゃないんでしょうか?


ほんとは、にんじん好きなこどもだけが成長した人口が正常値なんじゃないの!?
(なに的に正常なのかは知りませんけどね)

生きとし生きる

ぼくはたまにかんがえます。生きるってなんだろう。人生ってなんだろう。

含蓄のある格言や人生訓。たくさんありますけど、ざんねんながらあんまりピンときません。


とりあえずは、なんか意味があるという前提にたつからおかしいんですよね。

まわりをみまわしてみてください。

アリンコ。歩いてるかご飯食べてるだけ。

犬。歩いてるかぼーっとしてるか交尾してるかご飯たべてるだけ。

ネコ。どらやき食べてるだけ。

大腸菌。増えてるだけ。

というわけで、生きるために食べてるか、子孫繁栄してるか、あとはぼぉーっとしてるんです。

ヒトに近いサルでさえそうなんです。

なんで食べることをしてまで生きるのか。生まれちゃったんだから仕方がないです。とくに意味はないでしょう。死ぬのも痛そうで怖いですしね。

なんで子孫を残そうとするのか。これはわかりません。生き物全般の本能なんですかね。


とにかく、ヒトもそれらとおなじ生き物。

だったら、本来ならばおなじことだけしとけばいいんです。


ただし、ヒトは他の生き物より脳が発達してますね。

前にどっかできいたことがあるんですけど、ネコは過去、未来といった時間の概念を認識できないらしいです。

今、この時しか考えられない。

おそらく他の生き物もそうなんじゃないでしょうか。もしかしたらほんのちょっとの範囲で認識できるかもしれないですけどね。

それに比べてヒトは、過去・未来両方を広範囲で認識できますよね。

他の生き物は時間を点で認識、ヒトは線で認識できるってかんじでしょうか。


問題はそこですよ。自分が生まれて死ぬところまで認識できますから、過去あんなことあったなぁ~とか、将来どうなるのかなぁ~なんてかんがえているうちに、自分の人生そのものについてかんがえるようになるのは自然な流れなんじゃないでしょうか。人生ってなんだろうって、なりますよね。


点が集まって、それぞれが関連しあって前後にならぶ。それがたくさん集まって線になる。

そこには自然と流れが生まれて、それが物語になる。

ヒトは自分の人生に、物語を見ているわけです。ヒトだけが、別に意味のない人生に、物語を描けるわけです。

ヒトだけが、夢を見ている。それってとても素敵なことだとおもうんです。


もちろん、意味のないもののまま置いといてもオッケーです。物語も、いいことばかりじゃない。

ただ、元々意味のないもの。失敗したって減るものは何もない。だったら、どうせなら肩ひじ張らずに、自分なりの素敵な物語を描いてみてもいいんじゃないんでしょうか。


人生って、ヒトだけに許された素敵なオマケみたいなもんだとおもったのでした。