日々考えるのブログ

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日々学んだこと

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『木が蝉に向かって飛んで行って、とまることができるか。

蝉が木に向かって飛んでいってとまるように、私たちが神様と聖霊様と御子のところに行って、くっついてこそ、その懐で生きるようになる』



私たちと全能者の関係はこのようだ。

と先生は蝉と木にたとえておっしゃいました。


私たちが自ら選択していくということです。

聖三位は、人々がくるのを待っているということです。


いくら聖三位が行きたくても、限界があるということです。

私たちには自由意思があります。

つまり、どれだけ聖三位が愛していても、最終決定は人間側にある。ということです。


これは、ロボットのようにただ全能者を信じるように創ったのではなく、たくさんの選択肢があるなかで、自ら選択して、全能者を信じて、愛してほしかったからだと先生はおっしゃいました。


愛する女性が、初めからある男性を愛するようにプログラムされていて愛することと、多くの男性がいる中でもその男性一人を選んで愛してくれることとでは、その愛の大きさが違います。


これと同じく、神様、聖霊様、御子も、さまざまなものが存在する中で、全能者を選んで来てくれるということを願って、その大きな愛を受けたくて、私たちに自由意志を与えたとのことです。





『「車に始動だけをかけておいた状態」は<1段階>だ。「ギアを入れてアクセルを踏んで走る段階」は<2段階>だ。

-「人生」という車もそうだ。


<1段階>を経て<2段階>までは行かなければならない』



心は一段階、行動は二段階だそうです。

夢を描いても、実際に行動に移さなければ、絵に描いた餅です。


よい言葉を聞いても、実際に行なわなければ身に付きません。

学問を学んでも、実際に使わなければ知識として終り、得るものがありません。

御言葉を聞いても、実際にそのように生きなければ、変化しません。


しかし、一段階あってこその、二段階です。

いきなり二段階目にいくことは不可能です。


聞いていないのに、行なうことができるでしょうか?

学んでいないのに、行なうことができるでしょうか?


すべては段階的にすすんでいくと先生はおっしゃいました。

花が咲いて、実がなるのであって、いきなり実はなりません。


花の段階ですべきことをしてこそ実がなるように、肉体の段階ですべきことをしてこそ、霊が天国の霊へと変化するとのことです。



『自分と戦って勝ったら「サタン」も寄ってくることもできないし、来て見物だけをして帰る』



自分と戦って勝つとは、肉的には楽をしようとする自分と戦うことであり、霊的には自分なりの考えを捨てて、神様の考えで行なうことだそうです。


神様の考えとは何でしょうか?

御言葉だとのことです。


御言葉がすなわち神だ。と聖書にあります。

つまり、御言葉、神様の考えで行なうことが、神様と同行することになる。とのことです。

だから、同じことをやるにしても、御言葉とおりにやることと、自分の次元で考えて行なうことでは、得るものが天と地ほど違うと先生はおっしゃいました。


神様と同行するので、「サタン」が寄ってくることができません。


自分の考えで行なうと、ぶれるし、次元が低く、すぐに諦めてしまったり、間違って行なうこともあります。


人間は自分の次元でしか物事を判断できないからです。

だから、学ばなくてはならないです。

学問も、御言葉も学ばなくては、分からなくて、知らなくて、その次元にとどまって生きるようになる。とのことです。