16、本の読み方

[序分]

 本を読みながら私たちは、その本のどこがおもしろいのか分からず、何とも感じないのを我慢しながら読んでいるという事によくなる。そういう時「この本の何がおもしろいのか。」と問う事は大切である。その本の中はその時いわば光なき闇だが、そのような自己の思考が、闇の中でかすかな明かりになるからである。

 本が分からないという事はこの世の憂うつの種の一つだろう。私は「ファウスト」を思い浮かべる。「一銭の金も出さないたまらない金持ちだ!」と私も叫ぶ事がある。だが、私の持った感想は、「つまらない。」という事であるよりは、「分からない。」という事だっただろう。その本を中々理解できないでいる時私たちは、その内容に対して何も感じないから、感想など持てないが、その時「つまらない。」と言わずに、「分からない。」と考え、「この本の何がおもしろいのか。」と理解に努める事でより生産的な読書が生じると思う。


[本とは何か]

 作家は自分が生活している家の話しとかのようなものを書いているわけではない。本とは、いわば家の話しとかではない。むしろ本の背後にあるものとは人間の家なしである。つまり、作家は、キリストの教えに従い何もかも捨てたという話しをしている。例えばディケンズ「骨董屋」、カフカ「城」。私も、中々うまく読めてはいない。


[本の読み方]

 読んで行って、もしその本が一流の本であれば、分かって来る事がある。それは、「貧しい人々」でも「地下室の手記」でも何でもいいが、その本の内容が、一度読んだだけでは済まないようなものであるという事、つまり、単に理解しただけでは充分ではないようなものであるという事である。深く理解しなければならないと言い換えてもいい。いわば、単に難解なのではなく、どう理解したらいいかが分からないのである。つまり私たちは、自分の感覚の不足を感じる。だから本を読み取る方法に、自分の理解と作者の趣旨が重なるように読む方法と、長年の読書修行の積み重ねによって徐々に理解を深め、作者の感覚に近づいて行くように読む方法との二つの方法がある。だが、更に本を読む骨があって、それは、私が、文学を自分の心に触れるようにして理解を重ねて来た結果覚えた方法である。それは、作者を尊敬したり信頼したりする事である。その事によって、意味の分からない文章に突き当たった時や一見普通の事を言っているように見える時に、自分の理解の足りなさを思い、私たちは、そこで立ち止まり、この言葉はどういう事なのか、とその言葉の文脈をあれこれ考えたり、自分の経験や心の中でしばらく思考をさ迷わせたりし、より充分な読書ができるからだ。だが、このような読み方は、完全に守ると相当つらい読書修行になる。そして部屋の中には読めない本、途中で挫折した本が山積みになって行き、いわば借金がたまって来て、かなり苦しくなる。

 例えば、ベンヤミンの本のような難解なものでも、読書量が多かったりするような相当修行を積んだ人にとっては、「直接的」とか「詳しさ」とか「深さ」という事を意味するだけだという事になり、逆に分かるものに違いない。つまり悟りにおいて難解さは存在しない。……だが、その文章がとりわけ難解な事は、作者のせいではないのか?いや、その事は、その文章が、真理をそれだけの高い水準の理解で表現していて、そして自分の理解にかなりの遠さがまだあり、自分の理解の水準が低いという事なのだ。例えばベンヤミンの書いた本がそういう本に属する。文句を言わずに読書修行すべきである。


[読書について]

 文学者や哲学者というような人々はこの人生について考え、その考えを、様々な形姿や思想として本に残している。だから本を読むとはこの人生について考える事である。だが、私たちは、本をそういうものとして受け取って、作者が人生で考えていた事を、その本を読み込む事によって少しでも知り、自分の人生や死、生きる理由について考えるのではなく、読書を悪い意味での趣味にしてしまっている。その人が何を考えていたのか分からなくても平気でいるような上っつらだけの読書しかしていない。


[フェニックス]

 読書でできるだけ実践したい事はきちんと理解しながら先に進むという事である。そのようにして読んで行くならば、読み終えた時、その人は、その本を、深浅の程度の差は色々あるにしても、理解し、その本に対して自分の感受性を充分に発揮したと言える。だが、できないでいる。どんなにがん張っても読み取れないとしたら、それは、その本が不親切なのではないのか。いや怒ったりあきらめたりしないで、もう一度見てみるといい。そんなに不親切なものではないから。例えばホフマンスタールの「エレクトラ」を見てみるといい。自分は「エレクトラ」を、エレクトラの運命を、感情を、憧憬を、読んでいるという、理解しているという歓喜が生じて来るだろうから。比喩で言えば、本とはフェニックスだと言える。フェニックスは寿命尽きて死ぬ時燃え尽きて灰になるのだが、その灰の中から再びよみ返るのだと言う。中国の伝説の動物だが、それは火の鳥で、そのようにして不死なのである。私たちも、本に対してやがて寿命が尽き、死ぬだろう。だが、真理に達する為に本に対していつか再びよみ返るだろう。要は本は、本に対して誠実に向き合う者にそのような不死を可能ならしめるのだ。だから本はフェニックスである。例えば、論語という本があって、孔子という人が、多くの弟子達を引き連れて、戦乱の世に平和をもたらそうとして広大な中国を放浪している。私の言っている本とは、いわば、この孔子の弟子の事なのだ。またヨーロッパにおいては本とはイエス.キリストの使徒だったりする。

 孔子の弟子の中に宰我と子張という二人の弟子がいたが、宰我は、親に対する三年の喪の期間を一年に改めようなどと孔子に言い出すような、どうにもならない感情の欠陥を持っていたし、子張は、堂々としているが共に仁を行う事が難しいと曾子に批判されている。彼は、子遊にも、友ではあるが未だ仁ではないと批判されている。孔子によれば、仁とは人を愛する事だ。また己れを克服して古代の聖者の教えた礼儀に帰る事だとも言っている。まるで自分の事だと思う。改めたい。


   17、天使

 心の暗さとはこの世の記憶なのだが、それは、同時にこの世で生きようとしている思考でもある。世界は暗く、その暗さに直面する時心は苦悩に落ち入るに違いないと私たちは考えている。最も深い暗さは、未来を見つめても、自分にはあるかどうか分からないものだが、自己の思考において、苦しみという点で、そこで生きている自分自身よりも実体があるように思える。人が苦しみを求める時そこにはこの世界の根元的な意味がある。詩人という職業がこの苦しみと関係がある。彼らの表現の中にも何かしら根元的な意味があるからだ。私たちはそれを見て世界を感じる。私たちが世界を感じる理由はその表現が真理だからだ。私たちは、詩というものを知るまでは、世界について何も考えていなくて、それを知って、初めて世界の中に真理を見出し、世界に対して喜びを感じたのだった。ただしソクラテスのような人に、君はなぜ文学をやっているのかと尋ねられたら、どう答えていいのか困るに違いない。私たちが文学をやっている理由は、自分が感じている喜びだと言える。そして、その喜びは、根元的でなければならない。またより根元的になって行かなければならない。そう思ってはいるが、私たちの目は虚栄にきらめき、未来に向かってはばたこうともしている。ソクラテスに言わせれば文学とは虚栄であり、危険な罠だろう。何とか離れようとし、鎖を引きちぎろうとしても、虚栄によっては苦悩からは離れられないとソクラテスは言うだろう。もっと言えば、軽蔑によって苦悩から離れる事はできない。ソクラテスは、私たちに、自分を見つめなければならないと言う。プラトンなどは自分の書いた悲劇を焼き捨ててしまった。それは、プラトンが、自分自身を見つめていたからである。

 天使を見た事のある人は、そんなに多くはないに違いない。見た?それは、一つの体験なのだ。夜、天使がその人に触れると、その人は始め気付かないが、それでも鏡の前に立ち、呆然と自分の顔に見入る。そして、ああ俺は不幸になったのだと考える。「夢のようだ。」とよく人は言う。このような思いが意味する事は一体何なのか。夢であるという可能性を考えているのだ。この見ている現実が夢であって、その夢から覚める可能性はないだろうか……。だが、私たちにはその現実を消し去る事ができず、思考もそこで終わる。このような体験の後で、私たちの記憶の中に何かが残る。それは、世界の持つ意味を教えられたようでもある。それを悪と言ってみてもいい。ソクラテスが始終考えていたのはこの悪だったのではなかったか。ソクラテス刑死の後、プラトンは、この世界についてどう考えただろうか。憎んだのだろうか。その頃プラトンは一人でいる事が多く、孤独というものに慣れざるを得なかった。それでも、ソクラテスはどう生きただろうか、では自分はどう生きるべきだろうか、という事を考えたと思う。愛と友情、そして神に対する信仰。対話篇を残したプラトンの生涯は神に対する不断の祈りだったと思う。