吉野源三郎の「君たちはどう生きるか」

 

この一冊はきっと今日本の多くの人がそうであるように、もちろん、宮崎駿の最新作を観たから、読んでみようと思い立った。

もっと深く、理解するためには読まねば。

 

宮崎駿が「自分を作った一冊」としてあげた本であり、「失われたものたちの本」(創元推理文庫)と共に映画の原作ではと噂される一冊。

 

映画は宮崎駿から吉野源三郎への「君たちはどう生きるか」のアンサーでもあり、さらにこの映画を観る人への宮崎駿監督からのメッセージでもあるのではないだろうか?

 

「自分で読んで、感じて帰ってきてください。そして、自分はどう生きるか、考えて、みつけてください。」そんな風に宿題をだされているような。

 

だから、読もう。なるべく近いうちに。そう考えていながら、映画を観てから早一か月が経とうとしている。旅先でふらりと立ち寄ったカフェで、この本が私を待っていた。

 

 

Cafe 哲学と甘いもの。店内にはずらりと哲学書が並ぶ。

 

「自分をみつめるためのブックCafé」はどこもかしこも居心地がいい。

一人で籠れる狭いスペースもあり、いつかここでゆったり読み耽ってみたいと思った。

 

そこに平積みにされていた吉野源三郎の「君たちはどう生きるか」。

 

今かな?全部読めるとは思えないけれど、とりあえず読めるところまで。あたたかなジンジャーティーを頼んで、革のソファに身を沈めてページをめくり始める。

 

漫画化されたものであらすじはしっていたものの、かなり忘れてしまっており、まるで初めて読むかのように物語の中へ分け入っていく。

 

成績優秀だけれど、ちょっとしたいたずらが多く級長には推薦されない15歳のコペル君。父のいないコペル君を叔父さんは気にかけて彼を連れ出してはいろんな話を聞かせてくれる。コペル君の体験の物語と合間合間に叔父さんからコペル君へ宛てた手紙で構成されている。

 

読み進めてすぐ、なんだかケストナーみたいだな~と笑みがもれる。ケストナーはどの作品にも、物語の合間に作者から読者へのユーモアあふれた手紙がある。それは時にとても辛辣で。何が間違っていて何が正しいのかを幼い私に語り掛けてくれた。

 

コペル君の叔父さんの手紙は、ナポレオンや万有引力などなど、内容は多岐にわたって時々ちょっと長い。今は難しくてもいい、頭の隅にちょっとだけ残って、これからの長い人生にふと思い出してくれたら、と願いが伝わるような。私が、ケストナーを読んでいた時代にこの本を読んでいたら、きっともっと深い体験になっただろう。

 

家業の手伝いで手早く油揚げを揚げていく豆腐屋の浦川君の姿を感心して眺めるコペル君の姿は、母一人子一人の暮らしで、病弱な母の為に自分たちの食事をささっと手早く作るアントンに感心する点子ちゃん(お嬢様)を思い起こすし、コペル君がしでかしてしまう場面でも、私は「飛ぶ教室」の面々が繰り広げた様々な場面を頭の中で思い出していたのだから。

 

 

 

映画「君たちはどう生きるか」で、眞人はこの本をみつける。うっかり落としてしまった本が開いて、見返しに書かれていた「眞人くんへ」と書かれた母の字が目に入り、彼はおもむろにこの本を読み始めるのだ。

 

ゆっくりと時間が過ぎて行き、辺りは暗くなっていく。ある場面で眞人はハッとして、それから、彼は涙を流す。そこに何が書かれていたのか、説明はなされない。眞人がどう感じて、涙したのかも何も説明されない。ただ、きっとその涙は彼にとって大事な体験だったのだろう、とだけ伝わる。あの涙が眞人を変え、その先に待つ冒険を走り抜ける力を与えたのだと、あとになって私たちは気づく・・。

 

 

 

片親を亡くしたコペルくんと眞人の境遇や体験は、とても似通っていて。あの状況でこの本を読んだら、眞人はまるでこれは自分の物語なのでは?と途中でドキドキしたに違いない。何で知ってゐるんだろう?どうして?と。コペル君の心の動きは、そのまま眞人の心の動きでもあったろう。

 

コペル君は自分で自分が許せないような(彼にとっては)卑怯な行動をとって気に病み、それをやっとのことで叔父さんに告白し、信頼を取り戻すために勇気をだすようにとあたたかな言葉を掛けられ、行動に移す。

きっと叔父さんがお母様の耳にいれたのだろう、お母さまは病床のコペル君に自分のある体験を語る。

 

それは、誰にもでも一度や二度はあるような、こうしよう、と思ったのに身体が動かなくて出来なかった体験。

それがあってよかった、と思うのですよ。もしかしたら貴方も同じような体験をすることがあるかもしれない。でもそれも必ずあってよかった体験になるのですよ、と。

 

責めるのでもない、どんな体験もそれがあってよかったことになっていく。とてもやさしい、慈しみ深い言葉だった。

眞人は、きっと炎の中に消えて行った母が語ってくれる言葉のように感じたはずだ。自分を恥じ、責める心をそのまま包み込まれたかのように。

 

もうこの世にいない人なのに、変わらず自分は見守られていて、どんな体験をしても決して自分を見放すことはない。新しい母を受け入れられない自分も、夏子の前ではただの「男」に成り下がる父親への嫌悪も、徒党を組んでいじめに来る同級生達への怒りも、何かも。眞人が素直な気持ちでただただ涙に身を任せられてよかった。そういう瞬間が人には必要だから。

 

物語は、架空のものだけれど、時に現実以上の真実を私達にくれる。物語の中に行って帰って、その物語を生ききる時、私たちは何かを得て、帰ってくる。受け入れられない弱い自分を受け入れ、自身が望むそうありたい自分へ近づこうと、勇気を奮い立たせて現実の冒険に向き合う力をもらう。眞人がそうであったように。

 

ジンジャーティーをすっかり飲み終える頃、頁を閉じた。眞人のように涙を流しながら・・。旅先で一冊の本を読み終える。それも居心地の良いブックCaféで。最高の夏休みだなぁ。

 

 

(Cafeのレトロな電球の暖かな光が心地よい。)

 

(トタンのたらいを使った手洗い場もなんともいえない可愛さ!)

 

この物語の成り立ちを知って更に胸がいっぱいになっている。

 

1937年、日本はドイツとイタリアと共に戦争へと駆り立てられていく最中、子ども達に希望を繋げようと出版された「日本少国民文庫」の最終巻として、「君たちはどう生きるか」は刊行された。山本有三らと子ども達にどう書いたら伝わるのか、説教くさい物語にしないためには?と検討を重ねて練られた物語だったそうだ。そして戦時中はこの本も発禁処分を受けてしまう。

 

水面下でペンを持ったこんな闘いがなされていたのだ。

 

時を同じくしてドイツではエーリッヒ・ケストナーもまた体制を批判する文章を発表し、ナチスに執筆活動を禁じられていた。同じ時代に同じように、深い内省と幅広いものの見方を身に着けるんだよ。そして自分の目で見て、よく考えてごらん?自由って何だろう?人々の心の平和ってなんなのか。物語を通してそんな問いを子どもたちに投げかけ続けてくれたひとが存在した。まさに全存在を懸けて。

 

平和な時代に書かれたものではなく、夥しい人々の命を奪う戦争へと熱に浮かされたように駆り立てられていった時代に、そうじゃない生き方もあるんだ!と未来を生きる子どもたちへ考えさせようとした勇気ある人々の祈りの塊。一冊の本が、熱く輝いて見えた。

 

 

この本を貪るように読み、涙した少年時代の宮崎駿監督。駆け抜けるように彼は作品を作り続け、映画「君たちはどう生きるか」で少年時代の彼を育んだ吉野源三郎への回答と私達に向かっての大きな問いかけを残した。

 

私たちは考える。考え続けていく。

 

君たちは、どう生きるか?私たちは、どう生きるのか?

 

 

 

 

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