エルトゥールル号の恩【トルコが親日家の理由】 | 最初からクライマックス!

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色んなコトに怒ってます。

先日、トルコに皇太子が行きました。また友好が深まりますように

って一言言っただけなんですけど、トルコが日本と友好関係に

あることを知らないんだか、ネトウヨのウソ話だとか言ってる

人がいるらしいので、記事にしようと思いました。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%AB%E5%8F%B7%E9%81%AD%E9%9B%A3%E4%BA%8B%E4%BB%B6


1890年(明治23年)9月16日夜半、エルトゥールル号は折からの

台風による強風にあおられ、紀伊大島の樫野崎に連なる岩礁

に激突、座礁したエルトゥールル号は機関部に浸水して水蒸気

爆発を起こし、沈没した。これにより、司令官オスマン・パシャを

はじめとする587名が死亡または行方不明になる大惨事となった。

このとき、樫野埼灯台下に流れ着いた生存者は、数十メートルの

断崖を這い登って灯台に遭難を知らせた。灯台守の通報を受け

た大島村(現在の串本町)樫野の住民たちは、総出で救助と生

存者の介抱に当たった。この時、台風により出漁できず食料の

蓄えもわずかだったにもかかわらず、住民は、浴衣などの衣類、

卵やサツマイモ、それに非常用のニワトリすら供出するなど、

献身的に生存者たちの回復に努めた。この結果、樫野の寺、

学校、灯台に収容された69名が救出され生還することができた。

遭難の翌朝、事件は樫野の区長から大島村長の沖周(おきしゅ

う)に伝えられ、沖は神戸港の外国領事館に援助を求めて生

存者を神戸の病院に搬送させるよう手配するとともに、県を通じ

て日本政府に通報した。知らせを聞いた明治天皇はこの遭難に

大いに心を痛め、政府として可能な限りの援助を行うよう指示し

たと伝えられる。こうして遭難者に対する支援が政府をあげて行

われ、10月5日に東京の品川湾から出航した日本海軍の「比叡」

「金剛」2隻により、生存者たちは翌1891年(明治24年)1月2日に

オスマン帝国の首都イスタンブルに送り届けられた。
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今から119年前のお話です。

樫野の住民達は当時50軒程だったそうですが、初めて見る

外国人を躊躇無く必死で助けたそうです。

元々貧しい村だったそうで、僅かな備蓄も惜します差出し一晩で

無くなってしまったそうですがそれでも69人を助けることが出来

たわけです。亡くなった方も丁寧に弔ったんですね。

後はここに書いてあるように、明治天皇が更に手厚く介護の

手配と無事に帰国できるよう計らわれたのでした。


そんなワケで、この恩は1985年3月17日にイラン・イラク

戦争の只中に返されます。

今は亡きイラクの※サダム・フセインが今から48時間後にイラン

の上空を飛ぶすべての飛行機を撃ち落とすと世界に宣言した

お話です。(※フセインはフセインで自分の国をただ守りたかった

なんだと思う。)

イランに在住していた日本企業駐在員とその家族215名

は慌ててテヘラン空港に向かいましたが、この時日本政府

は対処が遅れました。

しかし、そこにトルコ航空の飛行機が二機、助けに現れた

という。

乗客全てを乗せ、成田へと離陸したのはタイムリミット1時

15分前。文字どうり間一髪の救出劇だったのです。


助けてもらった理由がこの時日本政府もマスコミもわからず

にいましたが、後に前・駐日トルコ大使ネジアティ・ウトカン氏

がエルトゥールル号の恩を語り、解かるんです。

『エルトゥールル号の事故に際し大島(和歌山県の串本沖)

の人たちがなしてくださった献身的な救助活動を今もトルコ

の人たちは忘れていません。私も小学生のころ歴史教科書

で学びました。トルコでは子どもたちさえエルトゥールル号の

ことを知っています。今の日本人が知らないだけで、テヘラン

で困っている日本人を助けようとトルコ航空機が飛んだだけ

です。』


トルコでは教科書で歴史を語り継いでるのですね。

日本もこの恩を忘れず、トルコは親日家だと語り継いでいく

べきです。


※世界大戦で日本に宣戦布告したのに本当に親日家なの?

って疑問に持つ人へ。


トルコが親日国であるという話はトルコの歴史と関係しています。

元々、 トルコはオスマン帝国を作り プライドを持っていた民族

でして、ロシアの圧力を掛けられ1853年クリミア戦争でロシアに

クリミア半島をとられてしまったんです。

そこに1890年にエルトゥールル号により日本に恩を受けました。

で、1904年に大嫌いな大国ロシアに島国で小さな日本人が

勝利した為、トルコ人はますます日本が好きになったのでした。

(トーゴービールが売り出された)
1920年には第一次世界大戦でやぶれ共和国となり、1945年

連合国(特にロシア)のトルコの地理的条件などにより強い圧力に

よりいやいやながら対日独参戦を宣言したのです。

それは形式だけで、日本ともドイツとも戦闘は行っていないのです。

戦後 嫌いなロシアに対抗してNATOに加盟 日本と同じ親米と

なり日本とビザ相互免除協定を結び、往来を自由になりました。


日本も飛行機の事件からトルコとの友好を大事にしたいと積極

的に動いてる所ですv

↓2010年はエルトゥールル号難破事件から120年の節目を

迎えるんだね、と。

http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/TURKEY/visit/0806_ks.html