中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略称。当時、日本列島にいた民族・住民の倭人(日本人)の習俗や地理等について書かれている。
『三国志』は、西晋の陳寿により3世紀末(呉の滅亡から陳寿の没年の間)に書かれ、陳寿の死後、中国では正史として重んじられた。

『三国志』の中に「倭人伝」という独立した列伝が存在した訳ではなく、魏書巻三十「烏丸鮮卑東夷伝」の一部に倭の記述がある。 中国の正史中で、初めて日本列島に関するまとまった記事が書かれている。『後漢書』東夷伝の方が扱う時代は古いが、『三国志』魏志倭人伝の方が先に書かれた。
なお、講談社学術文庫『倭国伝』では『後漢書』を先に収録している。

当時の倭(後の日本とする説もある)に、女王の都する邪馬臺國を中心とした国が存在し、また女王に属さない国も存在していたことが記されており、その位置・官名、生活様式についての記述が見られる。また、本書には当時の倭人の風習や動植物の様子が記述されていて、3世紀の日本列島を知る史料となっている。

しかし、必ずしも当時の日本列島の状況を正確に伝えているとは限らないことから、邪馬臺國に関する論争の原因になっている。また一方で、岡田英弘など『魏志倭人伝』の史料としての価値に疑念を投げかける研究者が一定数いる。
岡田は、位置関係や里程にズレが大きく信頼性に欠けるとの見解を述べている。宝賀寿男は「魏志倭人伝が完全ではなく、トータルで整合性が取れていないし、書写期間が長いのだから、手放しで同時代の史料というわけにはいかない。『魏略』の『三国志』より先行成立は確実とされるが、現存の逸文には誤記も多い」ことを指摘している。
さらに、『三国志』の研究者である渡邉義浩は、『三国志』の「魏書」と同様に魏志倭人伝は著者である陳寿が実際に朝鮮半島や日本に訪問して書かれた文献ではなく、あくまで噂や朝鮮半島や日本に訪問したことがある人々からの聞伝えで書かれていて信憑性には疑問があると述べている。また、『魏志倭人伝』には「卑弥呼が使者を派遣した当時の曹魏の内政・外交や史家の世界観に起因する、多くの偏向(歪んだ記述)が含まれている」との見解を述べている。