【しばいちゅうたつ】。

中国後漢末期から三国時代にかけての武将・政治家。
魏に於いて功績を立て続けて大権を握り、西晋の礎を築いた人物。西晋が建てられると、廟号を高祖・諡号を宣帝と追号された。
『三国志』では、司馬宣王と表記されている。

河内郡温県孝敬里出身。司馬防の次男で、楚漢戦争期の十八王の一人である殷王司馬卬の12世孫にあたる。司馬氏は代々尚書等の高官を輩出した名門の家柄で、司馬懿自身幼い頃から厳格な家風の下に育った。

兄に司馬朗(伯達)が、弟に司馬孚(叔達)・司馬馗(季達)・司馬恂(顕達)・司馬進(恵達)・司馬通(雅達)・司馬敏(幼達)らがいる。司馬家の8人の男子は字にすべて「達」が付き、聡明な者揃いであることから「司馬八達」と呼ばれた(ただ単に8人の達たちということでなく、「8人の達人」という意味合いに掛けている)。妻に張春華、息子に司馬師・司馬昭らが居る。
兄の司馬朗と同様に曹操へ出仕した。

若年の頃から聡明で、博覧強記・才気煥発で知られ、優秀な人物が揃っていた司馬八達の中でも最も優れた人物と云われていた。『晋書』の宣帝紀によると、苛烈な性格であったが感情を隠すのがうまく、内心激しい怒りを抱いている時も表面では穏やかに振る舞ったという。

「狼顧の相」と言い、首を180度後ろに捻転させることが出来たという。この噂を聞きつけた曹操が、本当か試すためにいきなり司馬懿の後ろから名前を呼んだところ、体を正面に向けたまま頭部のみ真後ろに振り向いたという。『晋書』の宣帝本紀では、曹操がこの相を見て「この男性は遠大な志を抱いている」と警戒し、曹丕に「彼は心中に野望を秘めており、一介の家臣として終わるつもりはなかろう」と語ったという。ただし、本来「狼顧」というのは「狼が用心深く背後を振り返るように、警戒心が強く老獪なこと」を指す言葉である。