今から836年前の3月20日、つまり西暦1184年の今日である、
西暦1184年3月20日(ユリウス暦も同日)、旧暦では寿永3年/元暦元年2月7日に、「治承・寿永の乱」=いわゆる源平合戦における「一ノ谷の戦い」がありました。
寿永2年5月(1183年6月)の倶利伽羅峠の戦いで源義仲に敗れて兵力の大半を失った平氏は、翌7月に安徳天皇と三種の神器を奉じてて都を落ちて九州大宰府まで逃れていました。
この時に京の都を制圧した義仲は統治に失敗し、頼みの綱である後白河法皇にも見限られました。勢力を盛り返し讃岐の国屋島まで挽回していた平氏は、この年の1月には神戸まで戻っていました。
失地回復を目論んで京都を目指していた平家を迎え撃ったのが、源頼朝の命を受けた源義経であり、彼が歴史の舞台に躍り出た日でもあります。
この日から壇ノ浦の戦い(1185年4月25日)に至る36日間は、桜前線とすれ違うように展開する、平家滅亡に至る哀しい日々だったのです。
1184年3月20(寿永3年/元暦元年2月7日)から、1185年4月25日(元暦2年/文治元年3月24日)までを旧暦で表してしまうと、実際の季節とのズレが生じて、桜の時期に平家が滅亡したことが伝わり難いのですよね。
歴史は年号を暗記することが目的ではなく、それぞれの地域や国々の季節感を交えて想像することで、より深く理解するキッカケにもなると思うのです。
3月20日の歴史をもう一つ。
1703年の3月20日(元禄16年2月4日)、赤穂浪士が預かりの大名屋敷で切腹をした日でもあります。
主君であった浅野 内匠頭 長矩(あさの たくみのかみ ながのり)の命日、切腹をした日が元禄14年3月14日(1701年4月21日)でした。その時世の句が、「風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとかせん」でした。
それ故に、主君の命日よりも前に、そして桜が開花する以前に、赤穂浪士に切腹をさせることで、事件の終息を図ったのではないかと思うのです。
ちなみに、赤穂浪士の討ち入りの日は、「ときは元禄15年、12月の14日」という前口上が知られていますが、西暦に換算すると「1703年1月30日」で、立春を前の出来事でした。
「ウィキペディア」の3月20日
( https://ja.wikipedia.org/wiki/3%E6%9C%8820%E6%97%A5 )の「忌日」欄には、この日に切腹をした赤穂浪士の名が、それぞれの肩書とともに記されています。
その一人ひとりの日常を描いた作品が世に出ることを、兵庫県民としても赤穂浪士ファンとしても楽しみにしています。
どうも、最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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