現代の若者言葉というのはなかなかに不思議なものだと思います。


標準語との乖離の仕方や、それを使う若者達の文化など、その独自性は頭で理解している暇がないほど猛スピードで変化していきます。


それは単にスラングと言って済むものではなさそうです。 


(とはいえ若者言葉に関する考察は巷に溢れかえっているので、さして面白味のないものかもしれませんが、個人的な思索のまとめを兼ねて少し書いてみようかと思います。)






日本の若者言葉の「独自性」と書きましたが、海外のスラングと比べた時、日本語の若者言葉というのはどのように違うのでしょうか。



例えば英語では


“See ya!” (See you.)

“ASAP” (As soon as possible)


といったようなものがあります。


一つ目は、既存の言葉の “カジュアル化” 。二つ目は、既存の言葉の “省略”です。

主にこの二つが、英語のスラングの目的であるように思います。




一方、日本語の最近の若者言葉として


「やばい」

「卍」

「笑」


といったようなものが流行りました。


これらは、意味の共通する既存の言葉は存在せず、多数の言葉の集約として生まれているように思います。


これ以外にも、日本の若者言葉として流行るのは意味が広く、汎用性の高いものが多いでしょう。

(既に「やばい」「草」などというのは汎用性の限界に達しているように思います)





よく、インターネットによる言語の簡略化が原因などと言われることがありますが、私はこれらは単にネット時代の産物というのに限らず、根底の言語文化というのに強く影響を受けていると思います。



そこで、英語と日本語について、言語的な性格と、言語文化の発達過程について、その関係性を考えてみようと思います。



(「言語文化の発生」についてこの後度々書きますが、それは文字の誕生と捉えています。文字がない言語文化は言語として発達しないことが殆どだからです。アイヌ語など。)







まずは英語について。



英語は、比較的事務的実用性が高く、

意味の明瞭度が高い言語だと言えます。 


主語を常に明記する、というのもその一つでしょう。


英語はインド・ヨーロッパ語族が大半のルーツと言われています。

ヨーロッパの中では、四大文明に数えられるインダス・エジプト・メソポタミア文明で既に文字が発明されています。



その後、古代ローマやギリシア・オリエント世界では、国家的な民主政治が行われ、明文化された法律もできています。さらに、様々な学問もかなり高度に発達していました。



ヨーロッパは、陸続きの大陸という土地の性質上、頻繁に衝突や争いが起こります。そうした中で、集団の強固な結びつきや、学問の発達が求められました。



集団にはリーダーが立ち、人々をまとめ上げることが必要になります。


戦う上では人々のコミュニケーションがはっきりと伝わることが必要です。


また、学問は即ち明確な理論体系の形成ですからこちらも明確な言葉が必要です。


そうした理由から、ヨーロッパでは明瞭度の高い言語が形成されたと考えられます。






一方で日本語はどうでしょうか。



日本は弥生時代以降農村文化がベースです。


農村文化でもムラやクニはあり、戦いもありましたが、ムラやクニは純粋な共同生活的側面が大きく、争いも領土拡大といったものではないため、強固な結びつきはあまり必要ではなかったでしょう。


このように、農業主体の生活における言語の重要度は低く、言語は発達しにくかったと考えられます。





その後、日本で文字言語が文化的に定着し始めたのは、

飛鳥時代、神話や古代歌謡の発生からです。



神話はその後、

地誌(風土記など)、紀行文、随筆へと発達します。

また古代歌謡は和歌として発達していきました。


このように、日本語は宗教・思想をルーツとして生まれたため、言語自体、心情的性格を大きく含んで生まれたと言えます。




こうした日本語の心情的性格が色濃く発達していったのは、平安文学によるものと考えます。


平安文学というのは、貴族の文学です。

貴族というのは、暇です。

暇な貴族が考えるのは「恋」、「自然」、「人生」、「美」などです。

よって平安文学はそうした心情が主体となっています。


しかしそれら人間の感情というものは複雑です。

これらの感情を表現するために彼らがとった手段は、

“曖昧な言葉ですます”

というものです。

(感情表現を曖昧な言葉で済ます、というのは日本人にとって当たり前に感じますが、案外海外ではストレートな表現が多用されるように思います。

英語で “I love you.”と言うのはおかしくないのに、日本語にすると「君を愛してる」となり、それ自体日本語でありながら英語的な感じがしたりもします。)


自分でも理解しえない複雑な感情を、あえて明記せず、「含み」をもたせる。そして、読み手の心によって再度意味が補完されて完成するという構造なのです。

「をかし」などはその代表例として挙げられるでしょう。









さて、この辺りで現代の「若者言葉」に話を戻します。





日本の若者言葉は汎用性の高いものが多く生まれると前述しました。

 

これは、今まで述べたような日本語の変遷をみると、平安文学の作った、 “読み手によって意味が保管されて完成する” という性質が、言語の曖昧さを許容してしまうようになったからとも言えるのではないかと思います。




しかし、ここで疑問も浮かびます。

「平安文学」と「若者言葉」を同一線上にあると考えましたが、現代での両者に対する認識は正反対とも言えるのではないでしょうか。


平安文学が情緒ある風流なものとして捉えられるのに対し、若者言葉は薄っぺらく下品な言葉というような見方があります。



私は、このことも “双方の感情によって補完される”という性質故ではないかと思います。


平安文学者は、苦労して数ある言葉を繊細に紡ぎ出し、

また読み手も情景を想像し、心と対話して、言葉に隠された真意を掴まんとしていました。


対して現代の若者言葉はその過程をすっ飛ばし、単に汎用性のみ先走り、感情が双方によって補填されることなく会話が済んでしまっています。だから言葉が空っぽになってしまうのです。


これはすなわち、言葉を使う人間たちの感情の喪失なのかもしれません。だとすれば、最も嘆かわしきはそこにあると私は思います。




おわり




(豊かになり常に満たされた状態になると、心が枯れないからどんな感動因子を注いでも溢れてしまう。あるジャズバーの方が「利便性を求めて感動を置いてけぼりにしてないか」と仰っていたのを思い出しました。それは、やはり仕方ないことなのでしょうか、、)