約1ヶ月ぶりの更新。

自分の立場と云うよりも、人間としてどうしても放ってはおけない事だったので取り上げてみる。

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【群馬】小6女児自殺事件 母にプレゼントするために編んでいたマフラーで首を吊っていたことが判明

 群馬県桐生市の市立小学校6年の女子児童(12)が23日、自宅で首をつって自殺し、会社員の父親(50)が本紙の取材に「学校でいじめを受けたのが原因」と訴えている。
 県警大間々署や父親によると、女児は、自室で首をつっていた。遺書は見つかっていないが、同署は状況から自殺と断定した。
 父親や学校側の説明では、女児は腹痛などを理由に19、20、22日に欠席。
 21日には校外学習に参加。父親によると、女児は校外学習で同級生に、「なんで、こんな時だけ来るのか」などと言われたという。

 女児は4年生の秋に愛知県から転校。5年になって同級生に「汚い」「近寄るな」などと言われたと家族に訴えていた。両親が当時、学校に連絡し、いじめはいったん収まった。
 しかし、6年に進級すると、女児は再びいじめられていると家族に話していた。
 校長は本紙の取材に、「5年生の時に、同級生とのやりとりで誤解があったが、女児の保護者に話して誤解は解けた。その後も見ている限りは、いじめを把握していない」としている。




 群馬県桐生市の市立小学校6年の女子児童が自宅で首をつって自殺しているのが見つかった問題で、亡くなった上村明子さん(12)の父親の竜二さん(50)が25日、報道陣の取材に対し、
「6年生になってから学校に10回以上、いじめがなくなるよう相談したが、具体的な対策は示されなかった」と改めて学校の対応を批判した。

 一方、学校側は校長が記者会見し、「いじめの状況は把握できていない」としながら、「事実確認を行っていきたい」と述べた。市教育委員会も調査を始めた。

 竜二さんによると、明子さんは23日、自室でカーテンレールにマフラーをかけて首をつって死んでいるのを、母親(41)が見つけた。マフラーは、明子さんが母親にプレゼントするため、編んでいたものだという。

 明子さんは4年生の秋に愛知県から転入してきた。いじめが始まったのは5年生になってから。
同級生に「汚い」「近寄るな」などと言われたこともあり、母親が外国人であることについても、からかう言葉を浴びせられていたという。

 5年生の2学期頃、竜二さんが学校に改善を申し入れ、いじめはいったん収まった。
ところが、6年生になると再燃し、給食時に同級生がグループで食事する中、独りぼっちになっていたという。

 校長は会見で、「給食の状況を担任は直したいと考えていた。ただそのことがいじめの対象になっているとの認識はなかった」と話している。
(2010年10月25日22時13分 読売新聞)


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うちは両親が共働きであったので、私達姉妹は保育園に預けられていた。

今の自分を知る人間は驚くであろうが、小さな頃の自分は本当におとなしく引っ込み思案であった。
他の人をコミュニケーションをとるのが上手くなかったようだ。
保育園に私を置いて仕事へ行く母の車が見えなくなる迄泣きながらずっと眺めていた。

周りの子が庭で遊ぶ中、私はいつもクレヨンとスケッチブックを相手にしてひたすら絵を描いていた。
描く物さえあれば、放っておいても独りでずっと黙々と絵を描いているような子どもだった。
逆に、自分の描いた絵が友達とコミュニケーションをとる方法であり道具でもあった。


小学校に上がる。
仲の良かった保育園の友達は隣の小学校へ行くこととなり、数少ない同じ保育園だった友達とはクラスも離れてしまい、1年生のクラスには知っている子が誰もいなかった。
少しだけ、喋ることが出来る友達が出来た。

小学校に通い始めてから暫くして、それは突然に始まった。
机の中や持ち物に入れられた紙くずやゴミ。
椅子や机の上に置かれた大量の消しゴムのかすや鉛筆の削りかす。
机の裏に塗られた糊。
給食がパンでジャムが付いてきた時は机の裏や椅子にジャムが塗られた。

目立つこともなく、自分から何かする事もなく、おとなしく生活をしていたので自分にはそんな事をされる理由が全く分からなかった。
服や持ち物が汚されることは凄く厭だった。
それでも泣いたり先生に言ったりすることもなく、独りで掃除をして片付けて黙っていた。

持ち物へいたずらが始まってからすぐに、今度は色んなことを言われる様になった。
私は平均よりも目が大きい。
子どもの顔は小さいので顔に占める割合として目も大きかったことだろう。
「目玉」「出目金」「めだか」「ブス」「変な顔」「気持ち悪い」
今では誰に何を言われたか全く覚えて居ないが、男の子も女の子も笑って色んな事を言ってきた。
私は嫌がらせに対して全く反応をしなかった。
それが彼らの行動をエスカレートさせたのか、ずっとずっと続いた。

毎日家に帰ってから声も出さずに泣いた。
家族に心配されるのが厭でトイレや風呂の中で泣いた。
別に自分が悪い事をした訳ではないと分かっていたから、そんな状況でも学校へは通っていた。
「大きくなったら、人に笑われないように気持ち悪いと言われないように顔を変えよう」と思った。

2年生に進級する迄、そんな毎日が続いていたと思う。

学年が代わって、嫌がらせは終わった。
学校に通う事はどうしても好きになれなくて毎朝泣いては居たけれど、学校に行ってしまえば楽しかった。


5年生になった。
いつからだかは覚えていないけれど、近所の女の子達と一緒に学校の行き帰りをしていた。
近所なのでクラスは違っていてもよく一緒に遊んでいた。

気が付けば、朝の迎えもなくなり帰り道も独りぼっちになっていた。
話し掛けても一切無視だった。
それが2ヶ月ぐらいは続いただろうか。

その頃、母は仕事を辞めて家に居た。
母が庭先にいると、一緒に行き帰りをしていた女の子達が近所の家の陰からこちらを見ていて、母が家の中に入る迄彼女達は我が家の前を通らないようにしていた。
それがずっと続いて母は不審に思った様だ。

「最近学校へは誰と一緒に行っているの?」「●●ちゃん達と喧嘩したの?」
何を聞かれても、私は何も言わなかった。理由が分からなくて何も言えなかった。

お腹が痛くて学校へ行っても早退して、欠席が続くようになった。
ある日、家で眠っていると誰かが尋ねて来た。
一緒に行き帰りをしていた女の子達が家に訪ねて来た様だった。

「侑稀ちゃんは難しい言葉を使って格好つけていて馬鹿にしてくるから気分が悪い」
「侑稀ちゃんは皆と違うことを言ったりやったりするから厭だ」
「侑稀ちゃんが変だから、仲間はずれにされても仕方がない」

彼女達はうちの母に一方的にそう言って帰って行った。

階段の隅に隠れて話を聞いていた私は泣けてきた。
仲良しだと思っていた友達にそんな風に思われている事が悲しかった。
本の虫だったので、会話の中での表現の仕方が他の子と違っていることはあったのかも知れない。
でも、結局は言いがかりの様にしか聞こえなかった。

数日後、その子達の親が家に来て仲間外れや無視をしていた事を謝りに来た。
誰かが家で私の事について言った様で、それで初めて知ったらしい。

でも、その子達とはもう一緒に居たくないと思ったし仲良く出来ないと思った。
それと前後して、近くに引っ越して来た子と趣味も合って仲が良くなり、その事は気に為らなくなった。


中学校に入って、同じ保育園だった子達と一緒になった。

保育園の頃とても仲が良かった女の子と6年ぶりに再会した。
明るくて元気だった彼女はいつの間にかいじめられっ子になっていた。
変な仇名を付けられて、何をしても嘲笑されていた。

私は気にせずにその子に話し掛けた。
でも、返って来た言葉はとても衝撃的だった。
「侑稀ちゃん、私なんかと喋っているとあなたもいじめられちゃうよ」
とても寂しそうに彼女は言った。

彼女とクラスが3年間同じになる事はなく、自分の力不足で彼女の事をどうする事も出来なかった。
今でも心残りに思う。



私はいじめられてきて無視もされてきて仲間外れにもされてきた。
自分にも勿論原因はあっただろう。
私はそう思ったから、誰にも言わなかった。

でも、それは自分の場合であって、いじめられている子どもが全てそうである訳ではない。
「いじめられる方に原因があって、いじめられる人間が悪い」と云うのは間違っている。
そう云う主張している人は、いじめられた事がないのではないかと思う。
痛みを知らない人間は痛みを理解が出来ない。

10人いたら、10人の顔が全く違うように言動も生活環境も価値観も考え方も違う。
人と違うところ=原因 だとするならば、世の中の人間全員が「いじめられる」対象になりうる。
「自分がいじめられること」が想像できたら、人をいじめることなんて出来ないだろう。


母に編んだマフラーで命を絶たなければならなかった。
その選択は余りにも酷過ぎる。しかも小学校6年生。
彼女がまだ見た事のない、綺麗で楽しくて心躍るものが世の中には沢山あったのだと思うとやりきれない。

今回の事件の報道に対する意見を見ると
・いじめた奴を晒せ
・担任や学校が悪い
・親が悪い
・取り敢えず悪い奴みんな死刑

報道(とその方法)に踊らされ過ぎてはいないだろうか?

教員の端くれの私から見て、正直に言えば、確かにこの担任教員の学級経営に少し引っ掛かるところはある。
俗に言う「学級崩壊」と云う状態の様に思える。
でも、単に報道されて居ないだけで、担任が工夫をしていたり頭を悩ませていたりしていたかも知れない。

担任から女の子への配慮も気に為るところではあるが、担任に対して管理職がもう少し配慮すべきだったのではないか、とも思う。

それでも、担任や親や学校そして加害児童を吊るし上げる事で何か変わるのか?
根本は何も解決しない。

体裁が悪いから認めたくない、いじめはなかった、なんて云う学校の姿勢には苛々する。
何らかを見ていても対応出来なかった担任にも苛々する。
世の中の人がそう思う様に、教員の私だってそう思う。

しかしながら、想像力が足りない。

子どもに想像力が足りないのは仕方がない。
けれど、だからと言って人を追い詰めることは赦されない。

今回の報道で「誰が悪かを突き詰めて、その人を叩こう」としている事は正義なんかではない。
それも人を追い詰めている。
死刑にしろ 晒せ と叫ぶ大人も、やっている事はいじめた側の子どもと同じである。
それに気付かない大人が居て、その中で育つ子どもが居る限り、今回の様な事はきっとまた起こる。
どれだけ学校や教員が目を皿のようにして子どもを眺めていても、全力で対策をとったとしても。

誰が悪いと犯人探しをする事も責任を擦り付け合う事も全くの無意味だ。
人1人が死んで仕舞っている以上、誰が悪い・悪くないなんて云って居られない。


死ぬ事にはかなりの勇気が必要だと思う。
「死ぬ気で頑張る」―それぐらいの覚悟をして挑むと云う意味の言葉。
自殺をする勇気と覚悟が有れば色々な事に挑戦出来ただろう。
それを彼女は自分が死ぬ事に使ったのだと思うと、どれ程辛かったのか想像するに余り有る。

いじめで死ぬ位ならどうせまともな大人にならなかったろうだとか、
いじめられたぐらいで死ぬなとか、
いじめられて死んだらそれが正しいもんなとか、
そんな言葉を吐ける様な図太い神経の持ち主には想像が出来ないだろう。


痛みを想像出来ない人間が多ければ多い程、傷付けられる人間も増えてその傷は深くなる。



こちらで辛い思いをした分、向こうでは安らかに過ごして居られる事を祈るしかない。
ご冥福をお祈りします。
気付けばもう10月。2010年も残り4分の1を切った。

前回の駄文から半月以上blogを放置。
読書がなかなか進まない割に色々な処へ興味が逸れるので、きちんとまとまった文章も記事も書けない儘である。

人間と機械・人間と幽霊…について、きちんとした文章がここに掲載されるのは何時に成るだろう。
書かず終いで年が明ける様な気がしてきた。いつかは書こうとは思って居る。

今回も学術的ではないお話を。

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ヒガンバナ:満開「ごんぎつね」舞台 愛知・半田

新美南吉の童話「ごんぎつね」の舞台として知られる愛知県半田市岩滑地区の矢勝川沿いで、約200万本のヒガンバナが満開になり、真っ赤に染まっている。
南吉の童話にはヒガンバナの記述が多く、地元の市民団体が球根を植え、手入れしている。
 近くの新美南吉記念館などで3日まで、「童話の村秋まつり」が開かれている。
近くに駐車場がなく、市観光協会は半田運動公園の臨時駐車場からのシャトルバスか名鉄知多半田駅からのバスの利用を呼び掛けている。【三鬼治】


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小学生の私は、国語の教科書と漢字ドリルが好物であった。

算数の時間は私にとっては苦痛でしかなく、いつも国語の教科書の中に逃げた。
国語の授業中も授業とは別の単元の話を読んでは空想に耽った。
漢字ドリルは配られたその日のうちに全て終わらせた。
(計算ドリルは一切拒否で名前しか書かない。…担任の先生は相当手を焼いただろう。御免なさい。)

童話作家、新美南吉氏によって書かれた『ごんぎつね』。
全国の小学4年生の教科書に載っているので知らない人は居ないであろう。

生きる世界が今よりも随分と狭かったあの頃、「地元だから教科書に載っているんだ」と思っていた。
確かに、国語の時間以外に、図画工作の時間でで新美南吉氏の作品の版画を作ったり絵を描いたりと色々とやっていた記憶が有る。
リュックサックを背負い、新美南吉氏ゆかりの場所をあちらこちら歩いた記憶も有る。
小学校に入る前から、彼の童話は読んでいた。

気付けば立派な記念館が出来て、大きく成ったら此処で働きたいとも思った。
(実際、今でもその願望は多少也とも有る)
地元贔屓かも知れないが、新美南吉の大ファンなのかも知れない。
「東の宮沢賢治、西の新美南吉」と謂われて居ることを知った時は本当に感動した。

何故だか自分でも分からないのだが今年は矢鱈と何か目に留まる物が多い年で、普段なら気にならない矢勝川沿いが気になった。
「手袋を買いに」と「おじいさんのランプ」も大好きである。
でも一番好きなのは「ごんぎつね」。

折角なので行ってみた。
(小旅行とも呼べない程の距離である)

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これが矢勝川。今では三方をコンクリートで固められて仕舞っている。
この辺りがごんの出没していた場所だと思われる。

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ご ん ぎ つ ね

 これは、わたしが小さいときに、村の茂平というおじいさんから聞いたお話です。
 昔は、わたしたちの村の近くの中山という所に、小さなおしろがあって、中山様というおとの様がおられたそうです。
 その中山から少しはなれた山の中に、「ごんぎつね」というきつねがいました。
 ごんは、ひとりぼっちの小ぎつねで、しだのいっぱいしげった森の中に、あなをほって住んでいました。そして、夜でも昼でも、辺りの村へ出てきて、いたずらばかりしました。畑へ入っていもをほり散らしたり、菜種がらのほしてあるのへ火をつけたり、百姓家のうら手につるしてあるとんがらしをむしり取っていったり、いろんなことをしました。

(中略)

 十日ほどたって、ごんが弥助というお百姓のうちのうらを通りかかりますと、そこのいちじくの木のかげで、弥助の家内が、お歯黒を付けていました。
 かじ屋の新兵衛のうちのうらを通ると、新兵衛の家内が、かみをすいていました。
 ごんは、「ふふん、村に何かあるんだな。」と思いました。
 「なんだろう、秋祭りかな。祭りなら、たいこや笛の音がしそうなものだ。それに第一、お宮にのぼりが立つはずだが。」
 こんなことを考えながらやってきますと、いつの間にか、表に赤いいどのある兵十のうちの前へ来ました。その小さなこわれかけた家の中には、大ぜいの人が集まっていました。
 よそ行きの着物を着てこしに手ぬぐいを下げたりした女たちが、表のかまどで火をたいています。大きななべの中では、何かぐずぐずにえていました。
 「ああ、そう式だ。」と、ごんは思いました。「兵十のうちのだれが死んだんだろう。」

 お昼がすぎると、ごんは、村の墓地へ行って、六地蔵さんのかげにかくれていました。
 いいお天気で、遠く向こうには、おしろの屋根がわらが光っています。墓地には、ひがん花が、赤いきれのようにさき続いていました。
 と、村の方から、カーン、カーンと、そう式の出る合図です。
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 やがて、白い着物を着たそう列の者たちがやってくるのが、ちらちら見え始めました。話し声も近くなりました。そう列は、墓地へ入ってきました。
人々が通ったあとには、ひがん花がふみ折られていました。
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 ごんは、のび上がって見ました。兵十が、白いかみしもを着けて、位はいをささげています。いつもは、赤いさつまいもみたいな元気のいい顔が、今日はなんだかしおれていました。
 「ははん、死んだのは、兵十のおっかあだ。」ごんは、そう思いながら頭を引っこめました。
 そのばん、ごんは、あなの中で考えました。
「兵十のおっかあは、とこについていて、うなぎが食べたいと言ったにちがいない。それで、兵十が、はりきりあみを持ち出したんだ。ところが、わしがいたずらをして、うなぎを取ってきてしまった。だから、兵十は、おっかあにうなぎを食べさせることができなかった。そのまま、おっかあは、死んじゃったにちがいない。ああ、うなぎが食べたい、うなぎが食べたいと思いながら死んだんだろう。ちょっ、あんないたずらしなけりゃよかった。」
 
(中略)

ごんは、これはしまったと思いました。
「かわいそうに兵十は、いわし屋にぶんなぐられて、あんなきずまで付けられたのか。」
ごんはこう思いながら、そっと物置の方へ回って、その入り口にくりを置いて帰りました。
 次の日も、その次の日も、ごんは、くりを拾っては兵十のうちへ持ってきてやりました。その次の日には、くりばかりでなく、松たけも二、三本、持っていきました。

(中略)

「そうそう、なあ、加助。」と、兵十が言いました。
「ああん。」
「おれあ、このごろ、とても不思議なことがあるんだ。」
「何が。」
「おっかあが死んでからは、だれだか知らんが、おれにくりや松たけなんかを、毎日毎日くれるんだよ。」
「ふうん、だれが。」
「それが分からんのだよ。おれの知らんうちに置いていくんだ。」




 ※出典 光村図書出版株式会社「国語四下 はばたき」


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何度読んでも、幾つに成っても、『ごんぎつね』を読むと涙が出て仕舞う。
罪滅ぼしの為に山で採れた物を毎日運ぶ姿が健気で仕方がない。

「権狐はぐったりなったまま、うれしくなりました。」

教科書には書かれていない、この結末。
ごんは最期に何を思ったのだろう。彼なりの罪滅ぼしは出来たのかな。
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今思えば、国語の教科書には深い話が多い。

『一つの花』と云う作品も凄く印象に残っている。
「一つだけちょうだい、一つだけ 」 が口癖になった女の子。

「この子は、一生、みんなちょうだい、山ほどちょうだいと言って、両手を出すことを知らずにすごすかもしれないね。一つだけのいも、一つだけのにぎり飯、一つだけのかぼちゃのにつけ…。
みんな一つだけ。一つだけの喜びさ。いや、喜びなんて、一つだってもらえないかもしれないんだね。いったい、大きくなって、どんな子に育つだろう。」

「ゆみ。さあ、一つだけあげよう。一つだけのお花、大事にするんだよう…。」
おにぎりの代わりにコスモスを手渡して汽車に乗って出征していく父親。
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大人に成った今だからこそ、理解出来る事も多いかと思う。
小学校の国語の教科書を読みたいなぁ。
今回の文章は根拠の無い戯言で、学術目的でも何でも無い。
以下、mixiニュースより引用。

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【引越し先で本当にあった怪奇現象】

いざ引越しとなるとあれやこれやと準備に大忙し。転居先のことまで気が回らない方も多いのではないでしょうか。引越ししてみると、こんなはずではなかったということが多々ありますよね。今回は引越し先で世にも奇怪な現象に遭われた方達の話。うわさ話あり、実話あり。あなたは信じますか? それとも気のせいと笑って済ませますか?

■廊下ですれ違う人影!夜中に叫ぶ子ども

~3年前、Sさんが当時勤めていた会社の同僚の話です~

●ようやく手に入れたマイホーム。そこに待ち受けていたものは…
 当時、その同僚は家族3人で都内周辺のマンションに住んでいたのですが、都会の喧騒から離れてのびのび過ごしたいと郊外に引っ越しました。都内のマンションを売って、足りない分は新たに住宅ローンを組んだらしいのです。でもとにかく、新築一戸建てを手に入れてとても喜んでいました。

●ねえ、一体これは何の音?
 転居先は新築の一戸建て。床がきしんだり建てつけが悪かったりということはないのに、引越し当時からいろんな“音”がし始めたらしいのです。誰もいない2階や部屋から「ピシッ」「ピシッ」と…。気づくのはいつも奥さん。その同僚やお子さんは「そう?」と初めは半信半疑だったと言います。

 彼の奥さんという方は霊感が強い方で、霊視能力があると言っていました。例えば紙に書かれた文字や写真を手にかざしただけで、その人の性格や考えていることを言い当てるというのです。「この人はあなたをよく思っていない」「この人はとても正直な人だ」など。以前私が知っている方を霊視してもらったのですが、恐ろしいほど言い当てられ、ぞっとした経験があります。

 そんなわけで、彼女が持つ特異な能力のせいで霊を呼び寄せてしまったらしい、と同僚は言ってました。最初はラップ音だけだったのですが、だんだんエスカレートしてきて、数ヶ月後には人の姿までもが見えるようになったらしいのです。廊下で“誰か”とすれ違ったり、自分の隣りに“誰か”が座っていたり…。初めは奥さんが気づくだけだったのですが、全く霊感のない私の同僚までもが人の姿を見たり、音を聞き始めたりしたそうです。引越して1年くらいたったころ同僚が「何だかやばいよ、やばいよ」と言っていた記憶があります。その後もポルターガイスト現象らしきものは続き、誰もいない部屋のドアが勝手に閉まったり、物が落ちたりし始めたと言います。

●子どもが夜中に叫びだした
 「行かないで~っ!」決定的だったのが彼の子どもの叫び声。夜中に何かにつかれたようにわめきだしたのです。これはどうにかしなくては、と知り合いのつてを辿ってある霊能者に除霊してもらうことにしたそうです。それでも霊現象は収まらず、引越して2年、ローンが残っているその家はとうとう売りに出されました。

 その後の引越し先では全く何の霊現象も起きていないと言っていました。やはり霊的に良くない土地や家というのは存在するのでしょうか?私ですか?あまり霊の存在を信じていなかったのですが、身近にこんな話があったので家を買う時は誰か霊能力のある人に見ていただきたいと思っています。

■のどが渇く~。気のせい?家のせい?

~15年前、Uさんが学生時代の頃の話です~

●この下宿にいるとのどが乾いて仕方がない
 当時大学生だった私は、学校の近くにある木造アパート2階建てに下宿を始めました。少し年季の入っていた建物でしたが、日当たり風通しともに良好でした。私には全く霊感がないのですが、引越してからちょっと気になることがありました。学校から下宿先に戻ると急にのどが痛くなって渇くのです。暑いからではないようです。一年中のどが渇くのです。

●みんながここで同じ様な思いをしていたってこと?
 ある日友だち3人が私の下宿先に来ることになりました。「なんだかのどが痛いわ、のどが渇くわね!」と3人が一斉に同じことを言い出したのです。本当に背筋が『ぞぞぞっ』としました。直感的に何かいると思いましたね。そこで、私も引越してからずっとこの部屋にいるとのどが痛くなって、のどが渇くことを言ったのです。特に霊感が強いという友人が真顔でぽつりと言ったのです。「霊気が漂っている」

 でも現実問題引っ越すとなるとお金がかかるじゃないですか? ここは腹をくくって卒業まで住み続けることにしました。その後も家に帰るとやはりのどが渇くんです。でもそれ以上の不思議な現象はなかったので、「こういうこともあるさ!」ぐらいにとらえて無事卒業までこぎつけました。

 その後社会人になって何度か引越しをしましたが、やはりあれほどのどが渇くところはないのです。今考えるとやはり変です。あのアパートには何か居たのでは?と今はそう思っています。

■あなたは家を変わらなければならない

~見知らぬ女性がOさんの友人をおもむろに霊視した話です~

●久しぶりの再会に話がはずんで
 ある時、学生時代の友人と2人きりで居酒屋の座敷で楽しく飲んでいました。お座敷といってもとても狭く、テーブルとテーブルの間はあまり空間がありませんでした。ちょっと横の人の話も聞こえるくらい。でも、久しぶりにその友人と会ったこともあり、ビールやお酒をどんどん空けて、とってもいい気持ちに浸っていたところでした。

 隣りのテーブルには男女のカップルが座って、静かに話をしていました。そのうちの1人の女性がちらちらこちらを向くのです。40代くらいの長髪の女性です。そして自分の肩をだるそうにさすっています。最初は私たちの声が大きいのかしらと思っていたくらいで、ちょっと声を低めにして、また話に興じていました。それでも何度も何度もこちらを向くのです。よく見るとどうも私の友人の横顔を見ているようでした。

●あなたは一体なにモノなの?
 するとその女性がおもむろに低い声で、私の友人側に向いている右肩をさすりながら、ぽつりとこう呟いたのです。「こっちの肩がしびれるう。あなたついてるよね。住んでいるところが悪い」それだけ言うと、首を振りながら、パートナーらしき男性の方を向いて静かにお酒を飲み始めたのです。

 ちょっと失礼なその態度に私は憮然としました。「気にすること…」と友人に言いかけようとすると、友人はなんだか真っ青な顔でうつむいてしまったのです。どうしようもないくらい重い空気に包まれました。フォローのしようがないというか…。もうせっかくの再会は台無しになるし…。

●それは本当の話?
 しばらくたって、友人はとても真剣な顔つきで話始めたのです。「実は先日引越してからすごく悪いことが重なっているの。原因はわからないんだけど、主人が急に具合が悪くなったりして、会社を休みがちになってるし…。私も急に具合が悪くなることがあるの…。今思えばあのマンションに内覧に行ったとき、すでにその予兆はあった気がするわ。部屋に入った瞬間に気持ちが悪くなったの。たまたま具合が悪くなったと思っていたんだけど、そうでもないかもね。口では言い表せないんだけど、何かいるような気がするの。肩に重くのしかかってきたり、頭にのしかかってきたり、そんな感覚に襲われることが度々あるわ。」

 私はあまり霊を信じない人間だったのですが、友人のことがあって以来、住んでいる場所がとても気になり始めました。風で部屋の扉が閉まっただけでもドキッとしますし、物が倒れたら“ポルターガイスト?”て勘ぐってしまいます。友人は居酒屋でのことがきっかけで、住まいを替えたそうです。今は夫婦2人とも元気に過ごしているようなので何はともあれ安心です。今回のことは気のしすぎかもしれませんし、あの女性のいう通りなのかもしれません。わからないということが返ってこういうことに拍車をかけているのかもしれません。



 いかがでしたか?別に脅すつもりはないのですが、引越し先を考える時にちょっと気になる出来事ですよね。

 引越し先に関する話を伺っていると、方位磁石を持って建物の方位を調べたり、神社にいってお札をもらったり、風水をみて色や置物にこだわったりしている方も多いようです。皆さんは気にするタイプ? それとも気にしないタイプ?

【引越しガイド:森眞奈美】



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幽霊ってものは存在するのだろうか。

鈍い人には感知出来ないと聞いた事が有る。
…要するに自分は鈍いと云う事だろう。

超常現象はプラズマに依る物だと、昔TVタックルで某教授が主張されていたのを思い出した。
本当にプラズマが原因なんだろうか。

先日家族と話をしていた時に何だか幽霊の話に成った。
その時に「でもさーお祖父ちゃんは、幽霊なんかおらんわって笑ってたよね」と弟が言っていた。

父方は西本願寺と聞いた事があるのでおそらく浄土真宗本願寺派。
でもコテコテではないしうちは本家ではないのでよく知らない。

うちの母方は祖父(母の父)が教会長をしていたぐらいの神道。
大雑把な括りだと神道だが、細かく見てみると富士山信仰なので密教の類に入るかと思う。

祖父は葬式をやったりお祓いに行ったりしていた。
この解釈が正しいのかは非常に怪しいが、神主と陰陽師を足して2で割った感じかと思う。

そんな祖父が「幽霊おらんわー ははは(笑)」と生前言っていたので
本当にいないのかな …なんて一瞬思った。

でも、体調が悪い時や何か理由がある時は、祖父は墓地などに近付かない様にしていたと聞いた。
それは何故なのかと言うと
「うちの処にも寄ってってくれないか…」と手足を引っ張られてしまうからだそうだ。
供養して貰っていない人達がわらわらと祖父に寄って来ていた模様。

あと、昔とある場所の道路工事の際やたらとトラブルが絶えなかったらしく
工事をしている人なのか工事を頼んだ会社の人なのかが祖父の許に相談しに来た。
「今、工事で水まわりを触ってないですか?そこに原因があります」と言って
祖父がその場所にお祓いに行ったらトラブルはぱったりと止んだとか。


( ^ω^) ・ ・ ・


幽霊はいないって、それって祖父の主観じゃないか…
普通の人が幽霊だと認識するものを
祖父は幽霊だと認識してなかっただけの話じゃないのだろうか……


♪おしーえてーおじいーさんーおしぃーえてーーおじぃーさぁん♪BY ハイディ

結局、よく分からない。
詳しく聞こうにも祖父はもう居ない。

でも多分、祖父には何か見えていたんだろう。


昔、祖父の家に泊まりに行くと僕らの寝る場所は決まっていて
大きな祭壇(正式名称はなんだろう…大きな神棚?)の前の大広間。
$ANGL0MANIA

↑これ(三方って言います)がいっぱい有って、そこに野菜やお酒がお供えして有った。
(神社の中とか寺の本堂で寝てるのを想像して貰うといいかも)

毎日朝と夜の2回 祖父は装束に着替えて、ここと離れの2箇所でそれぞれ祝詞を読んでいた。

今思うと自分達が寝泊りさせられていた場所ってのは、オカルト的にはこの世の中で最も安全な場所のひとつだったと思われる。


良かったのか悪かったのか判断は出来ないのだけど、
祖父の血は誰も継がなかったようで自分達兄弟も母も何も感じないし何も見えない。

でも、偶に空気が矢鱈と濁ってる所がある気はする。
有機物を燃やしてるとか牛糞臭いとか排気ガズとかではなくて、
何だか空気の淀んで重い感じのする所が有るのだがそこには行きたくない。
行く前に大体は足が止まるか鳥肌全開になる。

自分は鈍いのでそんな場所にはあんまり遭遇しないのだが、先日のBBQをした広場のトイレは入り口で足が止まった。
用を足しに行った訳ではなくてふと気になったので近付いたのだが、ここは入れないと思った。
理由は何だかよく分からない。


でも、自分も幽霊は居ないと思う。
供養して貰えていない人達が何か理由があってうろうろしてるだけなんだと思う。

供養していないのはこっちの世界の人間なのに、勝手に「幽霊」とか呼んでるのはその人達に対して失礼な気がする。


基本的に自分は居間にそんなに滞在しないし、居るとしても横になることは本当に稀なのだが
先日珍しく居間でゴロ寝をしていたら自分のそばで誰か(2人)がごそごそして歩き回っていた。
「ああ、弟だな…」と思ってそのまま寝ていたら、その5-10分後に弟と母が鍵を開けて家に入って来た。
施錠してあったから物盗りではなさそうだし、結局何だったのか解らない。

ってことを先日mixiボイスで呟いたのだけど、
自分のところに来るのは別に勝手だしそこのところは好きにして貰えばいいのだが、
来て貰っても何もしてあげられないので力がある人の許に行った方が良いですよ、
………とだけ言っておこうと思う。
死刑廃止と死刑存置の考察・BLOG版を読ませて頂いた感想を述べたいと思う。
(お忙しい中、文章をアップして下さった@aphros67様、有難う御座いました!)

TVを1週間のうち数分程度しか見ないだが、先日TV欄で新番組の宣伝が目に入った。

約3000人が光を見て、
約600人が光を見ない。

※厚生労働省人口統計資料2010 より 2008年度1日における出産と中絶の数値

昼ドラで堕胎を取り上げるのかと少し感心。

それにしてもこの、約3000人が光を見て、約600人が光を見ない という事実。
よく見て欲しい。これは1日の数値であるという部分を。
1日あたり5人に1人の子どもが闇に葬り去られている事になる。
光を見ない、のではなく、光を見せてすら貰えない、のだ。

刑場公開で色んな意見が飛び交って居るのだが、
それよりも何よりもこちら―堕胎―の方を考えるべき問題じゃないのかい?といつも思う。

少しだけ昔話。
応用倫理学のゼミに入る事にした私は、卒論を何にしようかと早速考えた。
ゼミ選択をしたのは3年生の春。
その当時の自分の頭には大学院進学と云う事しかなかったので
大学の卒論(学士論文)→修士論文 と展開していくと考えて
修士過程の2年間、継続して考えられる・取り組めるテーマは何だろうかと考えた。
勿論、取り上げるは「生命倫理」。
それ以外の選択肢は頭の中にはなかった。

これだ!と思ったテーマ(いずれ機会が有ったら此処でも取り上げる)が有ったのだが、
個人情報保護法と云うヤツに阻まれてしまい、全国各地からの資料収集の途中で論文作成を断念せざるを得なかった。

それが駄目であった場合の次の候補として挙げていたのが「人工妊娠中絶」であった。
結局は実行しなかったのだが、中絶手術を行っている病院への取材を卒業論文作成の一環として提案し
(今となっては非常に後悔。伝手が有ったのだから突撃すれば良かった…人生ここからで良いのでやり直したい)、
ゼミの担当教員に「侑稀さん、あなた、ルポライターにでもなるつもりですか?」と呆れられた。

最終的にはゼミの担当教員S先生の手は殆ど借りず(最終稿の校正程度)、法学部のH先生のお世話になって卒論は完成した。

法学部のH先生の専門は法哲学。
生命倫理に関する分野も多く扱っておられ、中絶問題に関する論文も書かれておられた。
H先生は中絶反対の立場でいらっしゃる。
しかし、日本の法哲学界においては中絶容認派が圧倒的に多く、中絶反対論者は非常に肩身の狭い思をしていると云う話を伺った事がある。
カトリック圏では賞賛される論文(中絶反対)でも日本ではボロッ糞のカッスカスに言われて仕舞う様である。
余談ではあるが、女性で尚且つ当時妊娠中であった、とある先生がH先生の論文に対して反論する文章を発表し、
「女性の権利の下に胎児の生存権がある」と、ご自身の論文ではっきりと言い切っていらしたのには大変に吃驚して仕舞った。

日本で中絶反対を掲げるにも、世論は味方をしてくれない、のか?

ここで漸く話が本筋へと戻って来るのである…。
(話が長いってよく言われる。申し訳ないです)


今から4年前に書いた自分の卒業論文より一部抜粋。
拙い継ぎ接ぎの文章です。


先に書いておくが、私は(特例を除いて)「堕胎反対派」である。
特例と云うのは後に詳しく述べるので割愛。
そして、「女性である」と云うことも書いておく。
(「堕胎は男性側に責任はなく女性に責任が有るのだ」と云うスタンスでは無い事の表明)


第1節 中絶理由別の倫理的考察

本章では母体保護法によって認められている中絶理由別に、どのような場合であれば中絶は許容されるかを倫理的に考察する。以下に挙げるケースは全て母体保護法によって中絶が認められているものである。

①妊娠の継続・出産によって母体女性の生命が危機にさらされる場合
②強姦によって妊娠してしまった場合
③経済的に育児が困難である場合
④胎児がダウン症や二分脊椎などである場合
⑤既に子供が3人居て、4人目はもういらない場合

 ①の場合、「母性保護」の観点から中絶は認められている。
妊産婦の死亡率は乳幼児死亡率の低下と共にその数値は下がり続けており、1995年には実数で85人、2001年には76人 であった。
しかしながら母体女性が死亡するケースは少なくなったとは言え完全になくなった訳ではない。その死亡原因として子宮外妊娠や、妊娠中毒症(妊娠・分娩・産褥期における浮腫、たんぱく尿及び高血圧性障害)、前置胎盤及び胎盤早期剥離などが 挙げられる。また、子宮破裂や分娩後に子宮筋が良好に収縮しない為に出血が止まらない(弛緩性出血)など胎児死亡や母体死亡に繋がるケースもある 。それ以外にも、母体女性が心臓疾患を抱えていたり過去に脳出血を起こしていたりすると出産に伴う血圧の上昇は母体女性の生命に危険を及ぼす。
母体女性の生命つまり生存権が胎児の生命に尊重されうるべきものだと考えられる背景には、2つの考え方がある。ひとつは、受精後22週迄の胎児は出生しても独立して生存していけるだけの能力はない為母体の一部として処置することが可能である というものである。もうひとつは、一般的に人格(person)という哲学概念が使用されるとし、「自己意識」を備えた存在者こそが「人格」、すなわち、生存権の主体と見なされるのであり、胎児には「自己意識」はない為、潜在的な「人格」である胎児よりも、現に人格として生存権を備えている母親の生命が優先されるべきであると考えられる 、というものである。
しかし、後者の概念には、植物状態の患者及び脳死患者といった自己の主張や意思が他者に伝える事が難しい場合にも「人格として生存権を備えていない」存在に含まれる可能性がある。つまり、人格の範囲を限定する事によって、自己意識を備えていてもそれが表明出来なければ生存権は優先されないと言い換えられる危険性も孕んでおり、これは中絶だけではなく重度の知能障害者の安楽死や脳死者からの臓器提供などが正当化される 状態に発展していく事が危惧される(しかしこれは本稿の趣旨と外れるものなのでこれ以上詳しく言及することは控えたい)。
そうであるからして、この場合に母親の生命が胎児の生存権に優先される理由としては、母親となる女性が生命を失う事が、これ以後の妊娠の可能性も出産の可能性も全て奪う事に繋がるからであると考える。妊娠の継続や出産によって生命活動が停止することになれば今後の生活もそこで停止してしまう。 しかし、やむを得ず胎児の生命活動を停止する結果となってもこの女性が生きてさえいれば、その後再び妊娠し出産することが望めるかもしれない。これは緊急避難とも呼ぶべき状況であり、母体女性の生命が尊重された結果に妊娠の継続を中断する事はやむを得ないと考えられる。


 ②の場合、条文に規定されているケースであり、中絶は可能である。

 国民の90%以上がカトリックであり、中絶が憲法によって厳格に禁止されているアイルランドでは、レイプによる妊娠の場合でも、中絶は認められていない(アイルランドでは、カトリックの影響が強いため、事実上、人工妊娠中絶は禁止されている。そのため毎年約6,000人の女性たちが、隣国の英国に渡って中絶手術を受けている)。1992年、友人の父親にレイプされ、妊娠させられてしまった14歳の少女が、イギリスに行って中絶を受けようとした際、アイルランドの高等裁判所から中絶の中止命令を受けたという出来事が起こった。この事件は世界中の反響を呼び、後に最高裁判所が、この少女の場合に限って、イギリスで中絶を受けることを認めたという 。

これは、カトリック 国家であるアイルランドにおける出来事であり国内での中絶は不可能となっていたが、14歳の少女であったという事と妊娠理由が強姦によるものであった事によって、特例的に少女はイギリスに渡って手術を受けることが出来たというものである。もし日本で同様の出来事が起こった場合、ほぼ無条件で中絶手術は行われ、それに対して非難する人間はあまり居ないであろう。
しかし、ここでもあくまで胎児には罪はないという事は強く主張すべきものであると考える。罪の所在は加害者、言い換えれば男性にある事は明確な事実である。しかしながら、このような場合憎むべき対 象は加害男性であるにもかかわらず、胎児もその対象に含まれ考えられる事が多い。
身籠った子供を出産したとしても、その子供の事を見る度に忌まわしい過去の出来事が想起され、そしてその過去の出来事がフラッシュバックする。つまり、その子供が存在する事が被害女性が過去の呪縛に囚われ続けた生活を送る事を余儀なくさせる、「だから」中絶しても構わないといった論法である。

しかし、先程述べたようにこの場合罪の所在は加害男性にある。苦しみから逃れる為に堕胎したとしても、被害意識も過去も完全に断ち切る事は出来ない。しかし、だからと言って妊娠の継続を強制する事は酷である。自分の立場としては、出来るだけ女性も胎児も共に生きられる形をとる事が最善の策であると考えている。胎児の生命を尊重する観点からするとこのケースの中絶は率先して肯定する事は出来ないが、女性の真情を察すると否定する事も出来ない。


③の場合、経済的理由が中絶を正当化する根拠となっている。斯く言う私自身子供を育てた経験はないが、現在に至る迄大体幾ら自分に投資されてきたのかおおよそは推測出来る。
実際に子供1人を育てるのに大体どの位の費用がかかるものであろうか。「子育て世代の意識と生活」と題された平成17年度版の国民生活白書は、0歳から21歳まで子供を育てるのに一人当たりおよそ1,302万円かかるという試算を公表している 。子供が一人居る世帯の22年間の支出から子供の居ない世帯の22年間の支出を差し引いて算出したもので、子供1人につき年平均60万円程度を子育てのために使っている事になる。
この内訳を見ると、子育て費用約1,300万円のうち教育費が528万円と、およそ4割の大きなウェイトを占めており、また、基本的経費の半分近くを食費が占めている 。この費用は子供一人を育てる場合を想定した試算であり、子供の数が増えるほど親負担は増加していく。また、別のデータによると、18歳未満の子供が居る家庭のうち、生活を「大変苦しい」と感じている世帯は25.7%、「やや苦しい」と感じている世帯は35.1% と、およそ6割以上の家庭が「生活が苦しい」と感じている事になる。どちらのデータも少子化傾向を後押ししている要因が見てとれるものである。

このように経済的理由に後押しされた形で中絶がなされ、それについて一般的に是認されているのは状況がある。しかし、生活が深刻なレベルで困窮している家庭も存在するのは事実である一方で、中絶を行う者が置かれる環境がそのようなものばかりであるとは到底言えないのではないであろうか。諸外国よりも比較的に「いい生活」をしており、インフラも整備され殆どの国民が医療を受けられる日本において、子供を産むと生活していけなくなると言うのは詭弁でしかない。この場合貧しさと中絶を結び付けるものは「今の生活水準の維持」であるか「子供に満足のゆく環境を用意する事が出来ない」という理由のどちらかであろう。
前者の場合、新たに生まれてくる家族を慮る気持ちというのが感じられず、あくまでこの中絶は親の利己的都合によるものである事は明白である。後者の場合、一見もっともらしい理由に感じられるが果たして本当に「もっともらしい」理由であるのだろうか。これは、「子供の為」の中絶、もっと言えば、「子供の事を考えて中絶(殺害)してあげる」という事である。子供が産まれる環境が用意してあげられない・育てるに十分な環境が保障出来ない事が、胎児殺害を正当化する理由として語られてもいいものであるとは考えにくい。産まれてくる子供の為に何かしてあげられる事はないであろうか、と考えるのが親の心理というものではないか。新しく増える家族の為に親として(または家族として) 何か我慢する、位の気持ちがあってもいいものではないのだろうか。そうであるにも係わらず、産まれてくる子供の事を思案した結果、導き出された答えが「胎児殺害」であるというのであればこれ程迄におかしい理由はない。胎児の存在が生活を変化させるマイナス要素として捉えられている事に問題がある。結局これも親の都合によるものであり、このケースにおける中絶は無条件(どの程度の経済状況で中絶を認めるか否かの線引きを定義することは難しく、また線引き自体も容易ではない故に)では肯定出来ない。
 

④は出生前診断によって選択的中絶をする場合である。現段階では法律上選択的中絶は認められていないが、これも「経済条項」の拡大解釈によって実際に行われている。
この場合の問題点としては①誤診による中絶②先天的疾患を持つ子供の排除③男女の産み分け(そして診断の結果、望んでいない性別の場合の子供の排除)④「育てていく事に見込みがない生命は医療の対象外にする」ことへの発展、などが挙げられる。
 
出生前診断(Prenatal Diagnosis=PND)とは、生まれてくる子供の状態(健康状態・生死・発育状況・先天異常の有無など) を胎内にいる段階で調べるものである 。広義には必要に応じて胎内治療を行ったり分娩方法を決めたり出生後のケアを整える為に妊娠期間中に行われる検査や診断を指すが、選択的中絶のために開発された技術もあり、それが倫理的な問題を孕んでいる 。
おもな出生前診断の方法として、超音波検査・母体血清マーカー検査・羊水検査、・縬毛検査があるが、このうちの母体血清マーカーテスト(トリプルマーカーテストとも呼ばれる)は採血のみで胎児のダウン症(21番染色体の過剰による発達・成長障害)や脊髄の確率を調べるものであり、選択的中絶の為に開発されたものである。これは妊娠中期に胎児や胎盤からの分泌物の成分量を測定し、ダウン症の発生する危険因子を調べ胎児がダウン症や神経性閉鎖不全であるかの可能性を計算する 。この検査では確定診断が行えない為、これとは別に羊水検査を行う必要があり、多くの場合母体血清マーカーテストと羊水検査は一緒に行われる。 羊水検査は妊娠15週から18週に少量の羊水を採取し、その中に含まれる羊水細胞を培養して染色体分析、遺伝子診断を行うものである。この検査により、染色体異常、代謝異常、遺伝子診断可能な疾患(血友病、デュシャンヌ型筋ジストロフィー等)を診断することが出来る 。しかし、 この検査には穿刺後の破水や流産のリスクがあるとされ、つまり検査によって胎児を死に至らしめる可能性があるのである。
これらの出生前診断を使って胎児の生命の質(障害の有無) を産まれる前に調べ、その結果をもとに生まれてもいい子供とそうではない子供に選別し、そうではない子供に対しては中絶をするのである。出生前診断によって「異常」もしくは「望んでいない条件」が見付けられた場合、自らが設けた条件をクリアする子供を望む夫婦にとってそうでない胎児の存在は排除(中絶)の対象以外の何にでもない。子供が生まれる事に関して精神的・経済的準備をする為に行う出生前診断は一概に否定は出来ないが(しかしながら、胎児の生命に危険が及ぶ可能性を周知の上で出生前診断を受けるという心理は個人的には理解しがたいものがある)、選別する為の出生前診断は理解しかねる。

障害を持っていると判明した場合、障害を持って生まれてくる子供の将来を悲観しているのか、障害を持った子供を持つ自分の将来を悲観するのか(或いはその両方)、胎児の質が自分の望むものでなかった場合に中絶を選ぶ大人はたくさん居るであろう。障害を持って生まれる我が子が可哀想であると感じ、「子供の為」と思って殺害を選択する事は、既存の中絶反対論でもしばし用いられるようにナチス・ドイツが行った慈悲殺と何ら区別はない。
しかしながら、障害を持った胎児の存在と中絶がイコールで結ばれる現状に問題がある。障害を持つという事はその子供のあくまで一部分でしかなく、障害の有無という観点だけでその子供全体を眺めるべきではない。障害を、生きていく上でのハンディキャップとして捉える見方もあれば、個性として捉える見方もある。それを踏まえた上で障害を持った胎児と中絶がイコールで結ばれるとするのであれば、障害を持つ事は生命の質が良くない、生きるに値しないという事になり、生命の質が劣る者に対する中絶は正当化されるという事になる。
 
そもそも「生命の質」とは何であろうか。
人生の中でより社会に貢献した者こそ生命の質が高いのであろうか、それとも健康に生活している者こそ生命の質は高いとされるのであろうか。前者の場合、社会貢献が出来ない者が、後者の場合は健康的な生活が送れない者が生命の質が低いとされる。生命の質について万人共通の何らかの定義付けがなされた場合、質が低い者は生命活動を行う価値がないとされ排除される危険性が出てくる。 この場合、何が生命の質を決めるものであるのかという基準にもよるが、仮に生命の質が「生きるための資格」であると定義づけられるのであれば、それは資格のないものは生きる価値を有さないという考えに基づくものではないであろうか。そうなると、生きる価値のない物は生きる事を放棄する義務があるという議論にも発展しうる。この場合重視されるべきものは「生きる」ということであり、「生きて何を行うか」といった「生きる」事以上のものを求めるべきではない。

また、「生きる」には本人の力も必要ではあるが、その本人が置かれる環境も大きく関連してくるものである。胎児の場合、出生後に置かれる環境を整える事は、親や家族が行うべき事であり責務でもある。③のケースでも述べたように、その環境を整えられないが故の胎児殺害は、親のあくまで個人的な理由である「自分の望んでいる生命の質」という定義から外れたものであるという理由に他ならない。環境を整える努力をしていないのにも係らず整えられないと決める事は、子供を産みたくないが故の後づけの理由にすら思えてくる。障害を持つ者にとって生活しにくい社会や生活環境の不備を理由として、障害を持つ事とそれが不幸なものであるという事を結び付ける事を決め付ける事は難しく、更にそれを理由にして胎児殺害を行う権利は誰の手にもない。
 
加藤は「診断可能=治療可能という医療文化が形成される前に診断可能だが治療不可能な場合には中絶を行うという文化が人々に定着するのではないか」 と指摘している。この文化は既に定着していると表現する迄は至っていないが、「あなたの赤ちゃんは水頭症です(…中略)産むか中絶するか一週間後に来てください。」という医師の発言 にも見られるように、治療が難しい場合には中絶という選択肢が用意されていることは事実である。
しかし、健康な子供を産みたいとする親の希望と、医師による医療の対象としての判断を混同すべきではない(これはあくまで別のものである)事を指摘しておく。


 ⑤のケースの場合、あくまで親の主観的・利己的理由によるものである。これは一般的に見ても中絶に賛同しがたい理由であると考えられる。しかしながら、これ迄にも述べてきたように親の都合で行われる⑤のようなケースは既婚者の中絶理由では最も多く 、これもまた「経済条項」の適用によって中絶がなされているのが現状である。



第2節 経済条項の適用とその解釈

現段階では中絶は「経済的理由」によって行われているものが大半を占めており、小林は「経済的理由」による中絶は全体の99.99%であると述べている 。「経済的理由」という項目を削除してしまうというのは実質的な中絶禁止であると、様々なところで主張されている 。
実際に中絶を行う理由として既婚者は「もう欲しくなかった」36.5%・「体調不良」13.5%・「経済的理由」11.5%、未婚者は「結婚前の妊娠」45.8%・「まだ欲しくなかった」30.8%・「本人の事情」12.5%、離婚者は「再婚前の妊娠」27.3%「もう欲しくなかった」「経済的理由」がそれぞれ9.0% と挙げ、親となる人間の都合と考えられるものが多いデータもある。
 このように中絶を行う者の大半が「経済的理由」を「理由」として中絶を行っており、その中で胎児殺害に及ぶ正当な理由が見付からないが、正当に中絶を行う為に「経済的理由」を拡大解釈し選択している者も含まれている。「経済的理由」をかくれみのにし、無計画な性交渉の結果、声を上げる事の出来ない胎児に尻拭いをさせている大人も多かろう。そのような人間にとって現行法で唯一拡大解釈の出来る「経済的理由による中絶」項目の削除は都合が悪いのである。
また、生みたくても産めない、産まないと決めた以上は受けなければならない手術が中絶である とあるが、子供を産む気など毛頭ないのにも係わらず無計画な性行為を続け、「子供ができたら堕ろせばいい」などと、自分の腹に宿した生命を排泄物と何ら変わらない程度の価値としか認識せず中絶を繰り返す人間も多々存在するのも事実である。中絶は胎児の生命を奪うものであると同時に女性の体にも負担が大きくかかるものである。しかしながらかかる女性たちは子供を産み育てる事ではなく中絶を選択する。このような場合、好んで中絶手術をするのではない、という部分は該当しないのではないであろうか。彼女らは妊娠する可能性があるとわかっていながらも、もっと言えば、元から中絶するつもりで性行為に及ぶのである。そうであるからして、中絶手術を好んで行っているのではない・望んでいない、とは言い難い。
ここで主張したい点は、産児調節の手段としてつまり避妊の延長線上として中絶を選択する事は決して肯定出来るものではないという事である。そして、親の勝手な都合による胎児殺害も、胎児が障害を抱えているが故の排除も、どのような理由による中絶も全て支えている経済条項については見直しが必要である。


第3節 母体女性の権利と胎児の権利の対立

 産むか産まないかを決める女性の自己決定権に基づく中絶は現行法の下では認められていない。しかしこの場合の中絶も、出生前診断による中絶も、母体保護法の経済条項の拡大解釈によって行われている。つまり、現行法においては堕胎罪の形骸化により母体女性(及びその周りの人間)の意思決定によって中絶はなされている。
 女性の権利を主張する立場からは、妊娠をするのは女性でしかなく、妊娠の当事者として中絶をするか否かを決める権利は女性の基本的人権として認められるべきだという主張がされている。この立場からすると胎児の存在はどのようなものであるのだろうか。
 以下の引用は、本稿の表題にも掲げられている女性の自己決定権と胎児の生命権について女性の自己決定権を尊重すべきであるという立場から書かれたものである 。

胎児は女性にとって「他者」ではない。胎児は子宮内の存在であり、それは女性にとっては自分のからだ・身体そのものである。
 これはまた、胎児の誕生以後との区別が曖昧にされている問題でもある。胎児とは女性の体内でしか生存できない存在であり、分娩を経て誕生したことを境界にして、人間社会で個体として生存する存在となる。したがって誕生以後は、分娩した女性によって生育を拒否されても、他者によって生育をされれば生存可能である。しかし胎児は、生きている女性の身体の一部である子宮の中でしか生存できず、その生命を全面的に女性に依存する存在である。故に女性と胎児とは対立する存在などというものではなく、胎児はその成長も誕生も、女性の体内の現象であり、妊娠している女性のからだ・生命・健康・精神・人生など、女性自身そのものなのである。


この場合、胎児は女性の一部分即ち一所有物であるという考え方が見て取れる。しかしながら胎児が「他者(女性とは別の、独立した存在)」ではなく女性の一部もしくは女性と同一の存在であるとみなしてもよいものであろうか。
欧米における中絶を巡る議論で中絶が肯定される際に用いられるのは、「胎児はヒトである」と断言しえない場合についてその「ヒトではない」期間の中絶を支持する説である。ひとつは胎児はヒトであるのか、いつヒトになるのかを線引きして考えるものである。胎児がヒトの形をなした段階か、子宮外での生存可能性を持った段階か、母体女性が胎動を最初に感じた段階かさまざまな基準が提示されている 。
もうひとつは「ヒト」と「人格」を分ける境界線を考えるものである。自己意識が存在し始めた段階か、社会的意味でのパーソンを持つ段階かという境界線が考えられている 。
これらの線引き問題の根底には、胎児は生存権を有するかという問題が存在している。女性の自己決定と胎児の生命を権利の対立として考えるからこそ胎児がいつ生命権を獲得するのかが問題となってくるのである。
母体女性の権利と胎児の権利の対立について、トムソンは「ある有名なバイオリニスト」の事例 を提示し、それによって胎児がヒトであるにしても胎児の生命権には他人(母体女性)の身体を利用する権利は含まれていないと主張した。
母親が胎児に対して身体の使用を認めた場合のみ、胎児が生存する為に母体を使用出来る権利を持つとした。また、母体女性が胎児に権利を与えていない場合は中絶することは不正ではないとした 。これによって母体女性の生命保護の場合は勿論の事、強姦による妊娠の場合や望んでいない「予期せぬ」妊娠の場合も堕胎は許容されると主張している 。

しかし、奈良・堂囿が指摘しているように、この議論は中絶が常に不正ではない事を証明しているが、中絶が容認される要件を特定していないという難点がある 。
この議論では、母体女性の身体が自己決定権の及ぶ範囲であり所有しているものだ(女性の体の一部としての胎児の存在)と認識されている事と、母体女性が胎児に対してなんらかの責任を負うのは胎児に身体の使用を認めている場合のみであるという前提に基づいている。

確かに胎児は母体女性の胎内なくしては生存し得ないのは事実である。しかし、そうであるからと言って胎児を女性そのものであるという主張・女性の身体は女性が私的に所有しているという主張には賛同しえない。何故なら、胎児の成長は女性の助けを借りてはいるものの、女性の意思とは無関係に成長を続ける胎児の存在はそれ自体独立しているものであるからである。しかし、トムソンの議論によって道徳的に中絶問題を考えるとき、前述した線引きは必ずしも重要ではない事が分かる。
胎児の存在を女性自身そのもの(私的な所有権が及ぶ範囲)であるとする事は、胎児を自分の体にできたコブや痣のような感覚で捉える事に近い。このコブや痣を自分の一部だと捉えたとしても、それが自分の所有物であるとするか自分と共存関係にあるとするか考えは分かれるであろう。更には、自分の体にくっついている以上どうしようと私の勝手であると捉えるか、自分と一緒に生きている存在「だから」見守ろう・そのままにしておこうと捉えるかに分かれるであろう。

自分の体に対して自分で決められる権利があるとして、自分の体の一部であるコブを美容整形手術で除去するか否かは、コブの所有者である女性自身が決める事であるというものとなる。しかしながら、この場合コブと言うのは単なる腫瘍でも脂肪の塊でもなく、胎児という、女性から独立して生命活動を営んでいる存在である。それに、胎児は突発的に発生し一方的に母体を侵略している訳ではなく、性行為という行動から誕生することについてきちんと認識しておかねばならない。そして、この生命活動をしている存在をヒトではなく女性自身であると定義づける事によって、ひとつの生命を終わらせたという感覚を薄れさせ、心の中に起こりうる葛藤を静める事が出来る。
しかし、その精神的作用を求めるが故に、胎児をヒトであるか否かを中絶とは別問題であるとして、中絶問題は基本的人権として認めるか否かという問題であると主張する事は権利を認めさせたいが為の飛躍した議論であると思われる。
また、「対立する存在などではない」という表現には、対立すると考えられる存在ですらないという意味が含まれているように思われる。この表現に対して生命の始まりについて軽視しているという議論を行うつもりはない。女性と胎児が対立する存在ではないと誰しもが考えれば、中絶問題については殊の外スムーズに議論が進むはずであろう。
しかしながら、中絶問題を考える時に多くの人が胎児の生命について考え、その結果子供に対して下した自分の決断を申し訳なく思う気持ち(水子供養)が出てくるのではないだろうか。

「胎児が人間であるか否か」とか「胎児にも人権があるか否か」あるいは「中絶は良いか悪いか」等の議論がある。
(中略)また、「中絶は胎児の生命を抹消する殺人だ」といって中絶を否定する主張もあるが、中絶は出産を望まないのに妊娠している女性が、そのからだを妊娠前の状態に戻す行為であり、胎児の生命を抹消する為に中絶をするのではない、という事実を忘れてはならない。
いずれにしても、胎児の権利や胎児の生命尊重を論ずることは中絶の核心とは別の問題である。(傍点は筆者による)

 
中絶の核心は、「胎児の生命尊重か否か」とか「胎児は人か否か」などではなく、自分のからだで進行する妊娠の継続を中止することを、妊娠の当事者が選択することを認めるか否かの問題である。それは一言で言えば「女性の基本的人権を尊重するのか・尊重しないのか」ということである。「中絶に関する女性の自己決定権を女性の基本的人権の一つでとして認めるのか・認めないか」という問題なのである。
「中絶は出産を望まないのに妊娠している女性が、そのからだを妊娠前の状態に戻す行為であり、胎児の生命を抹消するために中絶をするのではない」と述べられているが、妊娠前の状態に戻す行為と胎児の生命を抹消する行為は中絶という胎児の殺害によって同時に引き起こされる結果である。中絶せざるを得なかった女性およびその親族の心情を考慮しているのかもしれないが、言い方を変えたところで中絶は胎児殺害という行為であるという事実に変わりはないのである。
そして、胎児の生命を尊重するか否かを考えずして中絶問題を捉えようとする事には無理があるのではないだろうか。妊娠なくしては胎児の存在も中絶もなく、あくまでこれらは連続して起こる事象である。この一連の流れを断ち切って胎児の存在については触れないまま中絶のみを取り上げ、中絶を女性の基本的人権と認めるべきであると主張する事は難しい。

男性は妊娠する事は生殖能力上不可能であり、従って出産する事もない。妊娠と出産出来る女性だけであり、それは女性の「特権」である。しかし、その「特権」があるが故に男女平等ではないとし、産むか産まないかを女性が選択する権利が認められるまでは真の男女平等はなり得ないとこの立場は説く。
しかし、自分と共存する胎児を色々な意味で守ってあげられるのは母体となる女性しか居ない。
妊娠を継続するか否かの意思決定は、妊娠した女性だけではなく父親である男性も伴って議論し2人で下した決定に従うことが望ましい。この際、中絶はあくまでも胎児の生命を奪う行為である事は忘れてはならない。



22歳の自分が書いた文章をそのまま貼ってみた。
突っ込むべき部分は多いかと思うが、背景にある根本的な部分は変わっていない。
軸はブレてはいないと思ってる。

そして補足。

先天的に障害をもっている事が分かった場合、の話。
「障害を持っている人が周りにいないからそんな事が言えるんだ」…と思われる方もいらっしゃるかと思う。
そういった事は私の物差しでは計る事は出来ないし、計る必要もないかとは思うが、
私の父の妹―叔母―は先天的に障害をもって生まれ、話す事は全く出来ず自力では歩く事も出来なかった。
私達兄弟にとっては、物心ついた頃から一緒に遊んでくれる優しい人だった。
障害の有無で疎ましく思う事は一切なかった。

同居していた記憶が自分には無いからそう思えるだけ、かも知れない。
それでも、(父親を含む)兄達は妹を大変に可愛がって居た。
叔母はいつも笑っていた。


そして、自分は男の子だと思われて産まれて来た。
自分が男として生まれていたら弟はこの世に存在しないだろう。

自分の育った環境も、「中絶反対」と云う立場に多少なりとも影響しているのかも知れないね。
『PLUTO』を読んでから頭の中は[人間と人工物(人工知能・人造人間)]で一杯です。

自分の何気ない行動や思考を取り上げて、ふと「ロボットだったらどうするのか…」等と考えて仕舞って何をするにも脱線傾向。

それに関連して、『鉄腕アトムは電気羊の夢を見るか』と云う本を見付けて読み始めた処。
著者は布施英利氏と云う、美術解剖学を専攻されていた方。
初めてそんな学術分野が有る事を知った。
算数と理科が人並み以上に出来ていたら、そっちの道に進んでいたかも知れない。
医者に成る事と絵を描いてご飯を食べて行く事は小さな頃の夢だった。
それが両立出来る道があったなんて…!

まぁ、高校入学直後のクラス分けのテストで数学の点数が学年唯一の1桁であった人間が、
医者に成ろうなんて絵空事でしか無い訳であるが。


話を元に戻そう。
この本の中で(未だ1/4程度しか読んで居ないのだが)気になる部分を見付けたので引用しておく。

************************

こうなると、ロボット作りというのは、ほとんど人間作りでもある。顔ロボットは、人の表情の創造を目的としている。こういうロボット工学は、その先にある、何を目差しているのだろうか。ゆくゆくは、人工のテクノロジーによって、人間そのものを作り出そうというのだろうか。
(中略)
顔ロボットが、いつか人間の顔にとって代わる日がくるのだろうか、
だが、こうなるとさまざまな問題が生じてくる。そもそも「人間とは何か」という根源的な問題ともぶちあたる。人間以上の性能を持ったロボットの臓器を組み込んだ人体は、はたして人間と言えるのか。
(中略)
ぼくは何人かのロボット研究者にお話をうかがったが、顔ロボットの原文雄教授を含めて、自分たちが作っているロボットの、究極の到達点は、けっして「人間」を作るということではないらしい。
では人間ではない、何を作ろうというのか。それを言葉で言えば「ロボット」である。人間でも人形でもない、ロボットという言い方でしか呼ぶことのできない存在。研究者たちはそれを作ろうてしているのだ。
創造とは、そういうものなのだろう。


ロボット工学三原則(アイザック・アシモフ )

第一条 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。
第二条 ロボットは人間に与えられた命令に服従しなければならない。ただし、与えられた命令が、第一条に反する場合には、この限りではない。
第三条 ロボットは前掲第一条および第二条に反する恐れがない限り自己を守らねばならない。


新・ロボット工学三原則(ソニー)

第一条 ロボットは人間に危害を加えてはならない。自分に危害を加えようとする人間から逃げることは許されるが、反撃してはいけない。
第二条 ロボットは原則として人間に対して注意と愛情を向けるが、ときに反抗的な態度を取ることも許される。
第三条 ロボットは原則として人間の愚痴を辛抱強く聞くが、ときには憎まれ口を利くことも許される。

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何とか自分の中で話をまとめて、「人間と機械」について応用倫理の観点からの文章を書いてみたい。
(時間がどうの、と言うよりも文章を仕上げる腕があるのかどうかが問題であるけれども)

アトムの時代、『ブレードランナー』の時代が到来する前に、
人間が「人間」として考えておかねばならない問題は山程有る気がする。
応用倫理お得意の「線引き」問題なんて、今の段階で既にモッサリと山積みだろう。

『ブレードランナー』のDVDセット買おうかなぁ…


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