最近、授業のコマ数は多くないはずなのに、やたらと眠いです。


先週は、夜、風呂上がりにベッドの脇で座ったまま寝落ちした後、起床時間まで1時間だけ布団にもぐる

というようなことを連続3日。


だから疲れが取れないのか、疲れているからそんな睡眠状態になるのか、まさに鶏にわとりと卵卵


今週は、帰宅して着替えた後、家の階段を上る気力もなく寝落ちすること数日。


化粧を落としに洗面所に行ったり、水分・夕食を補給しにキッチン・ダイニングに上がるのすら

億劫になる始末。


まともに予習もできないので、昨年度のプリントをもとに授業をしたり、演習問題を解かせたりして

ごまかす毎日。


私、教員としてこれでいいのだろうかはてなマーク


今日も寝落ちしないうちに、「沖縄旅行記・その6」いきます。



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正殿の後は北殿へ。


展示コーナーのパネルでは、沖縄サミット当時の森首相の打算くさい笑顔にげんなりダウンし、


反対に、首里城での儀式のジオラマには感動して、写真を撮った。



一歩ずつ進もう


(正殿前の広場に並んでいる人形、いくつあったんだろう?)


売店もあったけれど、初日は物を買って増やさないと決めていたので、さらりと見て流した。


門を抜けて外に出た時には、すでに17時半時計頃。


でも、時計の時間のわりに空が明るすぎて、感覚がどうにも合わない。



続いて、円覚寺の門の前で祈ってから、小さな橋を渡って池の中の小さな陸地にある弁財天堂へ。


お堂自体は、例によって香立ての石が置いてあって(弁財天というくらいだから、神様だものね)、


雰囲気のある小さなお堂。


さすがに中には入れるわけがない。


脇に設置して会ったプレートに、その歴史や由来が書かれていた。


文字がかすれていて、全文は読めなかった。(それにもまた感じる歴史)


でも、特に印象に残ったのは、「1968年復元」のような内容に対して、Sさんが「返還前」と

教えてくれたこと。


関東の人間である私たちは、「大正・昭和・平成」の元号に加えて、1923年の関東大震災と

1945年の戦後あたりを歴史の基準にしている。


沖縄では、1972年の「返還」というのも歴史の大きな区切りになるんだなぁと改めて考えさせられた。




その後、池でアヒル(らしき鳥)に出会った。


一歩ずつ進もう

(Sさん、後ろから捕まえようとするの、ダメ―!!


 尾羽を振って警戒しているからっビックリマークそれ以上近づいたら逃げちゃうからビックリマーク



どこぞのおじさんが鳥にエサをやっているのを拝見した。


投げ落とされたエサをアヒルたち(特に可愛いヒナたち)が頑張って食いつこうとしていたけれど、


小さいのが間に合わなくて、大きいのに毎回取られちゃうのが可哀想……しょぼん


(「所詮この世は弱肉強食。強ければ生き、弱ければ死ぬ」by志々雄真実 @『るろうに剣心』)




おじさんとアヒルさんたちにさよならパーした後、Sさんから「もう一か所いい?」と確認された。


連れて行ってくれるなら、楽しい所でも、お勉強になる所でも、断るわけがない。


そして脇道らしき感じで木々の中を歩いてたどり着いたのが、ひっそりとある壕の前。


「第××通信司令部跡」という看板が置いてあることから、戦時中のものとわかる。

(↑××の数字忘れたショック!


入り口は鉄柵でふさがれていた。


柵の前には、花束が置かれていた。


「シーミー(先祖供養のために一族が集まる沖縄の祭り?)の時期が近いから、地元の人だろう」と

Sさんが教えてくれた。


これは、ただ首里城に遊びで観光に来たのでは、場所も意味もわからなかっただろうな。


今度は戦没者を思ってその壕の前で祈り、その場を立ち去った。




帰りに見た守礼門の前では、ツアーの団体様が集合写真を撮ろうとしていた。


ツアーが来るには時間が遅い気もするが、飛行機 がかなり遅れたのだろう。


かといって、沖縄観光の目玉の一つである首里城を削るわけにもいかず、

ツアー会社も苦労したに違いない。


Sさんと二人でツアー会社の人たちに同情しながら、彼らの脇を抜け、車に戻って首里を後にした。




Sさんによると、実は玉陵(たまうどぅん)に行くのを忘れたらしい。


識名園も最初の予定に入っていたそうだが、首里城を出た時点で時間的に不可能になった。

それでも十分に満足ニコニコ


首里城+α、素敵でした。


次は国際通りに戻って夕食へと続く。