ご訪問感謝です!
今回はほっこりほんわりさんのモニターセッションを受けた時に見た過去世についてです。
ほっこりほんわりさん、本当にありがとうございます!
テーマは『グノーシス派に関わった過去世』です。
グノーシス派とは、古代のキリスト教の一派で現在のキリスト教(カトリックやププロテスタント等)とは
趣の異なる宗派で私のハンドルネームの由来でもあります。
特定の傾向を持った思想や宗教を総称してグノーシス主義と呼んだりもします。
東方グノーシス主義(マニ教など)と西方グノーシス主義とに大別され、キリスト教と関係するのは西方グノーシス主義です。
場所はローマ領内のアジアに近い地域で今のトルコあたりに相当するところです
この過去世の私は20歳前後の若い男性で名前はウァレンティウスかウァレンティヌス。
顔立ちが他の過去世での親友のフアンにどことなく似ており、暗めのグレーの瞳に髪の色はダークブラウンか黒に近いグレー。
服装は、膝くらいまである丈の五分袖くらいの袖丈のゆったりした白い服その上に生成りのような色のトーガを身に着けていて、で腰にはベルトのようなものを着けています。
靴は赤茶色のサンダルのような編み上げ靴を履いています。
服は汚れやシワが見当たらず新品のような印象を受けます。
右手にペンを持ち、左手には紙か本を持っています。
私は室内に居ますがこの部屋は自分の部屋ではなく、私はこの部屋の主に呼び出されてそこに居るようです。
部屋の中の調度品は金か銀でそうしょくされており高級品のようです。
この部屋の主は私の親戚で彼は親や兄弟、従兄弟やおじより少し離れた血縁者のように感じられます。
彼は属州の総督かその側近で、彼には取り巻きが二人います。
この取り巻きの片方は別の過去世で出てきた有力な奴隷商人の取り巻きと同じ存在のようでした。
自分もこの親戚の人や彼の取り巻き達もきれいにヒゲを剃っているようです。
親戚の人は威張っていて私は彼のことが苦手なようです。
彼の服装は私と同じような服の上に深みのある赤色のマントかトーガを纏っています。
この親戚は逐一という程ではないものの日常で何があったかを報告するよう言ってきており、
相手の方が立場が上なので私は彼に渋々従っています。
彼は私以外にの他の親戚や一族にも同じ事を求めているようです。
この時期の私はビザンティウム(後のコンスタンティノープル)に住んでいて、私はそこで育ったようです。
この人生の大事な場面へ行くと私は23歳くらいになっており、グノーシス派のグループに入れてもらうようお願いしています。
グノーシス派のグループには噂を聞いて興味を持ち私の方から近づきました。
この過去世の私は男尊女卑の考えやローマの社会の在り方そのものに疑問を抱いていたためこうした場に興味を持ったのでした。
このグループの中で男性と女性が対等に扱われいるのを見た私は驚き、そうした場が存在する事を嬉しく思っていました。
この過去世の私が社会の在り方に疑問を持ったキッカケは、子供の頃に父が母に暴力を振るったが大人たちは父を処罰しないどころか誰一人として父の行いを非難すらしなかったことです。
この過去世の私の苦手な親戚の取り巻き達は彼の地位や資産にすり寄って来ているだけであることが見て取れ、このことから私は出世する事が本当に大切な事なのかを疑問に思ったのかもしれません。
時間をもう少し進めると、私は聖職者のような役割を担っています。
聖職者といっても現在のキリスト教の聖職者のようなものではなく、いい意味で俗人との境界が薄い感じです。
私が入れてもらったグループ内では厳密な階級制度などはなく、身分や出身地、性別などに対して大らかな様子です。
私はこのグループの中に自分の居場所を見出し、この中で生きることを楽しんでいます。
それまでの社会には馴染みきれず、このグループに入って初めて本当の居場所を見つけたと感じています。
以前にこの過去世をセルフ前世療法で少しだけ見ましたが、その時は私は25,6歳くらいでグノーシス派の集会に参加しており、年代は西暦120年か西暦124年または西暦125年と出てきました。
亡くなる場面に移行すると私は40代くらいになっています。
病気になっており熱があって息が苦しいと感じているようです。 といっても体感はほとんど無く、直感で分かる感じです。
同じグループに所属している20代くらいの女性が看病してくれています。
この人生を終える時は眠るような感じで、傍には先の女性と同じグループの女性がもう一人付き添ってくれています。
彼女たちは私を慕ってくれています。
この過去世からのメッセージは、
『自身の所属する社会や組織、コミュニティなどの中で正しいとされる考えや良いとされる行い、
慣習などは必ずしも本当の意味で良いもの、正しいものであるとは限らない。
正しい行いや多数派の考えとされるものも本当に善いものであるかを吟味することが必要となる。
もしも、正しいとされている事や良いとされている事が本当は善いとは言えないものであれば、
それに従わない事が大事なこと、必要なことになる』
と出てきました。