もちろんそれは10年前から飼っていた柴犬が予防注射が済んでいませんの催促状で

「そういや、親戚の家に預けてからどうなったのかな」

と、生死もわからぬ血統書付きのバカ犬のことではない。

風通さぬふすま越しのうわさによるとその親戚の人物が油断している隙に、首輪を付け替えている隙に逃げ出してしまったとか。

10年、いや、彼がもうすでにない我が家の敷居をまたいだのはもっと過去のような気もする。

曖昧然とした記憶は無論、あらゆるマスメディアからの隔絶が原因である。情報だけでなくクロノス的な時間のみに流された弊害は既存の記憶の混乱にも一助しているようである。


そうだ、まだ生きていたのは自分である・・・。


おそらく彼はすでに薄暗い路地裏で横這いに倒れカラスや新たな寄生主を探す内なる同盟者に食い破られその残滓はニンゲンが処理し今ではもうなんの痕跡も残っていないのだろう。

予防注射がなんやかんやと催促しているのだからまだ生きているのかもしれない。しかしその飼い主の下に彼がいないのだからやるかたない。

誰も知らない。やつはこの世界から消えた。

彼についてはもう懺悔の念しか浮かばない。

せめてものと枕元にあるコルクボードに幼い頃から成熟したときまでの写真を貼り見る。

ただ見るだけ。頭には何も浮かばない。浮かべない。

懺悔―――というのは誤謬かもしれない。

僕は彼に対しなんの罪悪感は持ち合わせていないのだし。

おそらく初めては昆虫。

もっとも最近では(といっても2年ほど前だが)げっ歯類。

人は繰り返して成長していく。

成長。

長く成る。

向かうベクトルまでもは成長によっては矯正されない。

ことこの件について言えばそのようである。

だから、この辺で、この成長は止めようと思う。

無意味ではないだろうが無節操は、非生産よりもたちが悪いらしいし。NEET、TEET。

もう、生き物を飼うことはしないと思う。

(飼われることはあっても・・?)



ネットカフェというところでこれを書いている。

設備の良さに正直びびるビッグツリーである。(爆笑の渦潮

ネットなんて・・!ふんっ!、と仕方なく回線を断絶したわけだが正直やっぱいいなぁ。

ゆえに同年代としゃべっていて会話がかみ合わないときがしばしばである。

まあそれでも携帯を契約して同年代と直接会えるようになったのはリハビリしているというべきか。

今頃、伊集院光のラジオを昔のものから聞き返していたりするのも問題だろうがそのラジオ内のコーナーである「遊び」よろしく携帯を1ヶ月でも封印してみよう。

友達減るから。間違いなく。それも大幅に。高校生以下はそうでもないかもだけど。

実は孤独大好きハードボイルダーや世知辛い現実をぶった切る剣を求めている方は是非どうぞ。

ってもそれを能動的にできるやつなら最初からハードボイルド、あるいは蛮カラだわな。


―――成長。

何もかも長ければいいというものではない。

たとえば太さとか、持続力とか太さとか。


なのでここに2008年ベスト流行語(候補)を載せておく。


成短!!


短く成れ!


われながら天才だな。





いいえ私は短くありません、むしろ・・・、いや嘘です、の反対の反対の反対。












少し離れて、パチンコ屋というのを見てみると、なるほどかなり異質だ。

車内から見える朝の並び。ぞろぞろ言い年した20代から上は6、70の人間たちが蟻の行列のように規則正しく並んでいる。

一度入店すれば以前よりは換気が行き届いているとはいえ島を歩けば紫煙渦巻く肺毒地帯。

幾人かが振り向く。機械的に。

その目。

眩いフラッシュにひもねす一日中至近距離で照らされるであろうその目は一様に吊り上げられている。

目が合うという行為は大の苦手だ。人は怖い。親とさえ数秒以上目をあわせていられない自分だった。

だけれども彼らとは目を合わせていても何も感じない。

振り向いた人間たちは2秒以上は見つめてこないメダル投入、レバーON、リール停止に戻ったのか、だがそれは逸らしたのではないかとも思える。

彼らは脅えているのではないか。そんなことを思う。

何から? 

何でもいい。

己が座る金の出る箱と向き合っていることが時間の惰性とか、先延ばしにする「明日への希望」が潰されるのはこの箱のせいだとあらぬ逆切れからくる理不尽と常識の葛藤かもしれないし、あるいは視点を変えて僕が脅えて見えただけで彼らは脅えていないのかもしれなくてただ人を睨みたかっただけかもしれない。

ただ言えるのはここは庶民の娯楽の場なぞではない。

4割が険しい眼で目の前の箱を睨み、3割が死んだ目つきをし、2割が無気力に仰け反りながら座り、1割がいろいろな笑いを見せているだけの場所。

娯楽を求めずして何をしにくるのか。───金だ。

労せずして金を得んがために朝早くから一般人に奇異な視線で見られながらも行く理由はただ金だ。

ここでも金の大きさが目立つ。

金あるところに社会は成立する。

───ここにも社会はあり、勝ち組がいて負け組みがいる


正論吐くだけ吐いて子供を置いてくような人間に何がわかる。───世間は平等ではないです、機会さえも。

負念の団塊に押しつぶされた人間に何が分かる。───死ねばそれで終わり、その通りです。あなただけは。


春か。

春だ。



県内には村が2つしかなかった。

市町村合併で消えていった名前もあった。

今日はその現存する1つの村、O村に行くことになった。

O村はH村に較べると裕福らしく隣するT町との合併に同意しなかったという事実からも見受けられるし何より雨水管埋設のための地質調査の段階でのお金周りだけみてもそれは窺えた。

そんな話を運転している男は言う。

だがそんなことはどうでもよかった僕はFMラジオでなぜか紹介されていた「お叱りCD」を聴いていた。

自然口元が歪んでしまったことを運転席の人間に指摘され慌てた。

別にCDを聴きながらニヤニヤしていたのを目撃されていたからではない。

───堂々とあれ、ヲタク!

のスローガンを掲げる自分としてはむしろ皆にオタクであることを知って欲しいのが実情だからである。(これは深く掘り下げれば対等に趣味の話が出来る知人が周りにいないということを意味する)

なぜ自分が叱られてニヤニヤしているのか、というのが問題だったのだ。

なぜだろう。お兄ちゃんCDを聴いたときは何もなかったはずなのだが……オレの属性は幼馴染と甘く緩やかに過ごs───ー

答えを出す前にラジオはすごい変わりようだがサイモン&ガーファンクル特集に移り思考は中断される。同時に目的地に到着。

もっと聴いていたかったなと残念がりながら時節は卒業シーズンだったなと遅い反応を示してみた。

現場の箇所には小学校の周りをぐるりとまわるポイントがあって何度かおなじみの終始業ベルがゆるく村全体に響いていた。どうも自分の学校のとは違かったような気がする。こちらは1オクターブ低くエコーが強い。

内と外の違いなのだろうか。

一斉に児童達が人口には見合わない広い校庭へと駆け出してくる。特殊な遊具へ我先にと駆け上っていくもの、サッカーボールでパス回しをするものたち、隅のほうでこそこそしている少年と少女。

各々が各々の気の向くまま疾走し、集団は我等の耳に喧噪となって届いた。

そんな光景。

子供が好きなわけでもない、太陽が眩しかったわけでもない。

そんな光景が胸を熱くした。

お前逆上がりできるか。

そう問われて声を荒げて馬鹿にするなよそんなのお茶の子孫サイサイ・シーだ、この野郎と言ってやった。

校庭に鉄棒があったからこそ彼は言ったのだろう。挑発にのり今やってやるよ、と言い鉄棒に向かう2人。

鉄棒は最高でも胸丈ほどしかない低いものだった。

低すぎるなぁ。

呟きを弱音ととられたのか嘲笑される。

彼は完璧に出来ないものと思っているらしい。彼は小学生以前から出来たと自慢していたが確か僕は小学生時代は出来なかった。幅跳びやドッジボール、鬼ごっこ、ドロケイ、缶蹴り。およそ小学生時代やった遊びは可もなく不可もない平凡な実力の持ち主だったが棒のぼりや鉄棒、マット運動などの縦の運動には今でもだがそれなりに雑魚いパラメーターであった。だがいまならできる。

なんたってオレは中学時代大便トイレの手すりで懸垂していた男だからな!!(詳細なし)

鉄棒に手を逆手でかける。

重力への反発、白筋の活用。ポイントは体を棒から離さないこと。

足から宙に舞うという物理的法則を無視した体回しは情けない掛け声とともに開始された。

ハッ!とフッ!の中間プラスアルファのような、どちらかといえばンファ!といったような自分でもみっともない声が腹から勝手に漏れる。

とりあえず成功だった。意外や意外といった表情で見られ、どうだと見返す。彼は一言。

「とりあえず、お前は何でそんなに息が上がっているんだ?」

珍しく12時での食事休憩をとり1時に再開。

すると1、2年生たちが有り余った体力を放課後の校庭でぶつけていた。

ちょうど遊具辺りで仕事をしていたためすぐに注目の的となった。

何してるの。

奇異な貢献に純粋な視線が投げかけられる。

彼は答える。

穴を掘っているんだ。

簡潔な答えではあるが明確ではない。だが彼らにはこれでいいのだ。

遠巻きに見ていた児童たちのうち2人が傍によって来てもう一度何してるの?

宝探しをしているんだ。

僕が言った。

風が強くなった気がした。とうに枯れ果てた広葉樹林の枯葉が傍を横切ったような気がした。

寒かった。誰も反応しなかった。

クソッ!わかんねえよ、コミュニケーションってなんだよ!

子供相手にも白けさせる俺なんかに同年以上の友人が出来るはずもない……

社会不適合者とは俺のことだな、やっぱり。

そんなセンチな葛藤を無視していかにもガキっぽい面の少年と将来ジャニーズっぽい染めているのか地毛なのか判別のつかない少年の2人は最も間近にあった遊具、ブランコに乗りながら、

おれたちはブランコで頑張るからおじさんたちもがんばってね!

とようわからん激励をしてくれた。

君達がブランコしたから仕事がはかどると思っているのかね。

そういう屈折した感情は全く生まれてこなかった。またも胸が熱くなり妙に照れくさくて仕事に専心して紛らわせようとする。快活に。

ちょっと、ちょっとちょっと、おじさんって俺も入ってるのかねっ。俺はどうみてもおじさんではないと思うんだ。だってまだ○青年ですよ!

あいつらにとっちゃ俺もお前もおじさんだろうよ、と彼は言う。

納得いかんなぁ。

ブランコって言えばお前、ブランコ跳びやったことあるか。と彼。

もちろんあるさ、靴じゃなくて体を飛ばすんだよな。

もちろんだ。

自慢じゃないけどあれは得意でしたよ?

鉄棒の雪辱を晴らすべくこちらから挑発する。

「デュエルすんのか、オラーーー!」

デュエルという単語の意味が知らなかったらしく聞き返されたが勝負することになった。

全く気楽な奴等だと思う。仕事より遊んでいる時間の方が多いのではないだろうか、とか思う……。

先ほどの2人の少年がブランコをしていた。

”お兄ちゃん”達も混ぜてくれよブランコ跳びしようぜ。

いよー、快活に同意してくれる2人。

気合を入れて漕ぎはじめる4人の背後にはきっとT-SQUAREのArcadia又はTRUTH辺りが流れていたことだろう。

立ち漕ぎでジャンプは危ないからするなよー。彼は遊びながらも子供たちには細心の注意は払っていた。

立ったまま跳んだ方が飛距離が出る、だが危険度と難易度が座り跳びより段違いであるため久しぶりだった僕も座り跳びにすることにした。最大まで漕ぎおよそ40度の角度で空を舞う。上に跳び飛距離が落ちすぎず、低すぎて距離が飛翔時間が短くならないように最善の角度で舞う。降下時に腰を捻り少しでも前へと貪欲に距離を稼ごうとする。着陸時には幅跳びの要領で体を九の字に曲げてさらに距離を稼ぐ。着陸。

少年2人は目を輝かせてすげーと礼賛してくれた。彼もやるなと認めてくれた。

彼も意外と飛んだが僕の記録までは追いつけなかった。もう年だな、意識ではまだまだだと思ってるんだが体がついてこない、と寂しい言い訳をする。

ジャニーズ系の少年が、

6年生はこんなに、こぉぉんなぁぁに跳ぶんだよ!

と走りながら説明してくれた。ゆうに15mはあり一体どんな怪物ブランコリン(ブランコ跳びするものの呼称)がいるんだよと突っ込んでやった。

夕方。1人、また1人とお迎えの車がやってくる。村の面積に比例して少ない学校。学校には専用のバスがありそれで帰らないものはマイカーでの帰宅なのだろう。この時間での児童の数は迎えをまつものたちの数だったのだろう、車が続々と登場してきた。学校が山の上にあるため自転車通学が適用されていないのだろうか。

結局最後まで見ていた2人の少年には一度だけ10キロの重りを運ぶ作業をしてもらった。

持てないだろう。と挑発すると、持てるよ、30mほど運んでくれた。足に落としてしまわないよう後ろから見張りながら懸命な後姿を見守る。こいつらは立派に成長して立派に死んでいくような気がする。そんなことを思った。

ありがとな。今日の作業を終了する折、褒美としてチョークをあげた。予想以上に喜び仲間を連れてねだってくるものもいて一時期大盛況な僕と彼だった。彼がキリがないといいチョークの贈呈をやめる。

チョークなんて教室の黒板から盗めばいいだろ。と僕が言うと。

そんなことしちゃだめだよ、と窘められてしまった。人間は性善なのではないか、思想が変わるところであった。

俺たちは明日も来るよ。

明日は土曜日だよ。

そうか、ならこれでお別れだな、気をつけて帰れよ。

じゃあねー。

じゃあな。

宮藤官九郎の作品をある程度をみていくと演出がパターン化していて驚きというものは感じられなくなる。

だけどそのパターンは不快ではないぞよ。

IWGPと木更津と一部映画しか見ていないくせに偉そうな評価を下すのが世間知らずのニートの実益のない仕事の1つであり、また誰とも意見交換をしないためその批評は往々にして純粋に歪曲している。また時代遅れでもある。


余韻を多少楽しみながらWCへ。

WC。

(WCって何の略だっただろうか?ウォシュレット?いやこれは既に略されているような・・・)

あ、本忘れた。

トイレという個室空間は自室のそれと違って何もないと手持ち無沙汰になる。

本を読まずに、勉強もせずにいる図書館のようなものである。

この失敗に、早便快便には定評のある僕は速攻で済ませて出ればいいという奇襲策で解決を謀った。

腰を降ろすと横にある消臭剤などを置くスペースに、

「高校でも皆に差をつけられる!

君もはじめないか!」(意訳)

なる中高生向け教材を販売する某会社からの資料があった。

こういうものが届くといつも思うが、個人情報なんて全く守られていないではないか。

どこでどう情報が流れ、利用されているのか全く分からない。

怖いことこの上ない。

必ずついてくるぺらい(内容も)漫画を見る。この漫画の主人公は往々にしてバカではない。80点前後をキープしているのだ。しかしくだらないくらいめちゃめちゃ悩んでいる。たまにはめちゃめちゃバカなヤツも書いて欲しいものだ。

これは専門学校とかに頼むものらしい。どれくらいの金もらえるんだろうかと思った。

漫画を見終え資料の見出しのキャッチコピーを見る。

「高校でも皆に差をつけられる!君もはじめないか!」

もっとも特質すべきは「高校でも」の”でも”にあるだろう。

この会社は端的にいって中学で他者に差をつけていた存在を募集しているということになる。

しかし他者に差をつけていた存在なんてのはどれくらい存在するものなのだろうか。

うまい宣伝文である。

キャッチコピーを見た中高生は差をつけていた、いないを客観性でなく無条件的主観で受け入れさせてしまうわけだ。

あなたは優秀ですといった褒め殺し文句が裏で見え隠れしていることが客観的にみるとわかる。

差とはなんだろうか。

差。

差。

人の生きる原動力───

ではないか。

と思う。

上の宣伝文のようにおそらく中高生に限らず人は人との差を意識せざるを得ない。

意識しそれを内在させ続けるか、放散するかは差の質にもよるだろうし人の性質により違いはあるだろう。

ただそれを持っているということに意義があるのだ。

表で人はそれを醜いと否定する。

人の表は故に清潔である。

美醜感覚で平和、平等を語るから争いが生まれる。

人間以外の生物にそんな感情はない。

彼らは生きるだけだ。

進化に弊害、反発は付き物であるから単に否定して言いというものでもない。

美醜感覚の代償なのならば美しいものだけを容認せず、醜いものだけを否定せず争いも是としなければならない。

即ち受け入れる器をつくること、それを拡張することだ。

差をつくることが是とされるのは個人の権利の拡大が影響していることは相違ない。

戦前、戦中の今では幻想にしか思えない国のためなら死ねるという思想は廃れ中央集権の時代は表面的には終わり、その姿を連立、拡散と姿を変えていった変容で弱くなっているとはいえ切っても切れない国と国民である。影響は大きい。

話題の単語、いじめについても大人たちの影響からの差をつける教育方針からくるもので止めろというのなら抜本的な教育思想の変換がなければ根本的な問題には至らない。また大人たちの影響は子供たちだけではない。大人から大人へという影響だってある。蔓延するのは民主主義。

それが原因で浮き彫りになり始めた差とはアベレージで見れば王権や社会主義よりも取るに足らないものかもしれない。

つまりは人間は平等ではなかったということであろう。

誰もが気づいていながら高尚なおべんちゃらで茶を濁すことはもういいという訴えなのだろう、いじめとは。

王という偶像を立ててた時代、天皇といういもしない全能者を奉った時代にはいらなかった考えである。

彼らに従い敬うことが救いでしかなかったのだ。

それは個で背負うには重りに過ぎた。だからこその小さな優越感を欲しいじめに傾倒する。

民主主義の社会で差をなくすことは出来るだろうか。

それは法の役目である。

法は万人を万人として扱う絶対的なものとしてある。

そこに個はなく。

なのになぜいじめが社会問題になるのか。

それは簡単に法が本来の仕事をなしていないためである。

そうして思うのだ。

法とは強いものを隠すための弱者へのお触れではないのか、と。

絶対的な、埋められない差を見せ付けられた瞬間である。既存の概念はぼろぼろと崩れ去る。

差を意識する、いや差を見せられる苦痛が広がる。

民主主義は差を意識し始めて形成される。


人は人との差を隠し持ち優越し日々を生きる。

ときに指摘することもあるだろう。

あなたは、私より劣っている。

彼はあなたより劣っている。

あなたは私には勝てない。

酔える。何と魅力的な言葉であろう。

広い定義で、だがこれはいじめになってしまう。

だから通常、これら麻薬的言語は内に秘められるだけとなる。

何故いじめはおこるのか。

それは多様化としか言いようがない。

明確な強弱を測る物差しがないというのは差を意識できず苦しいことだろう。

だからこそわかりやすい形がいじめである。

言い方を変えれば突飛ではあるが年齢差のない部下、だろうか。

人の原動力は差を求めること───平等、平和を破壊することにあるのではないか。

壊れたら巻き戻し修復したらまた壊す。

我々は子供が作った砂場の城の住人なのではないか。

出来上がったら壊される。

壊したらまたつくる。

現代が社会の到達点とは思いたくはないものである・・・。












無為な時間が流れている。何も生まない苦痛な時間ではあるが有限であることは何時何時(いつなんとき)も頭から離れない。

目下の難題である。

だが今日も過去の葛藤の一部を切り取って貼り付けたような葛藤しか脳内では催されはいない。

死という単語が浮かぶこともあるがどうも違うように思える。

消えたいという願望も身を起こしたがまだ少し違う。



ガスが止まった。テレビは場所の都合により室内アンテナが使えないため1ヶ月前から見れない。電気が止まった。電気がついた。部屋は汚い。家は汚い。部屋は人の心。家は家族の心。無数に送りつけられる重要と赤い判子を押された未納、滞納書。封を切られることもなく山をつくっていく。やがてそんな封筒も数を減らしていった。嵐の前の静けさと、離婚し傍観を決め込んだ母は言う。来年までもつことはないでしょう。今年ですべて終わるでしょう───

大きすぎる。

あなたは離れなさい。

それが唯一の手段だという。





埃(誇り)まみれの歴史から学ぶものなどなにもない

協調主義捨て去れば新人類の灯が燈る。


と唄うのは自由の戦士であり近未来都市でもある最後のアイドルことI・N・U・G・A・M・Iである。

世を見越したようなこの唄と現在プレイしているゲーム、最果てのイマのいう「世界の個室化」というのはおそらく似たようなニュアンスだろう。

オタク文化を哲学的見地から考察する東浩紀氏はオタク文化をポストモダンの本質が現れている存在と論する。

ポストモダンの登場は近代の崩壊を意味しオタクどもが閉鎖的空間を是とし閉じこもるのは大きな物語に代わる新たな価値観、規範を求めてのこと。そして近代の世界観は1つであるがポストモダンの世界はデータベースを元にシミュラークルが蔓延する思想、世界が無数に存在する世界なのだという。

また彼らはデータベースの消費、つまり構造の理解、解釈付けを望む。

ゲームでいうところの第三者視点であり、「神の視点」でもある。

シミュラークルとデータベースの消費。

紛い物と神の視点。

20世紀、そして21世紀と移ろう流れの中、神の存在は、こと日本においてはカルト以外何者でもない風潮が強い。

便宜的な利器を追い続ける現代においてそろそろ神の制作または神のいる世界を「創り上げる」ことへの執着が情報の集合体レベルで具現されようとしているのかもしれない。



金星だか火星だかと下弦の月のみが見える寒い冬の乙夜。

運悪くも雲行きが悪くなり始めた頃合に遠くに住む片方の親の住む場所に置いていた原付を取りに行く羽目になり、その帰り道。

(今日は寒いからとばさないで帰ろう)

違法改良のされていない原付のとばすは車におけるソレの通常走行以下であるがセミフルフェイスのヘルメットであったため顎から上に突き上げてくる風がダウンフォースを生み渦巻く気流は顔面を循環し何度も切り裂く。

前方の信号が青、黄、赤と点滅し赤で固定された。スピードを緩め徐行しながら白線のちょうど真上に止まる。

そのとき後方から猛烈にブレーキをかけてとまる車があった。

脇見か、と怪訝な目つきで運転席を見るともなしに眺めた。車の腹には○○花屋、℡3○○‐○○○○と桃色の文字が夜の帳が覆いつくした世界でアピールしている。運転手の顔は見えなかった。

不快な車だ。

花は積んでいないんだろうな。積んでいてそんなブレーキかけてるわけないよな。

ふつふつと悪い癖が起き上がるざわめきを感じたが押し殺す。

信号。また止まる。二車線に広がりその花屋の軽のバンとは3台ほどの空きができていた。それの先頭にまで原付は躍り出る。

信号。また止まる。信号の待機場所は坂道になっていた。左側は左側に曲がるのみの路線なので直線に進む路線は左から2つ目。ぎりぎりの線を辿りながらぴたりと止まる。そこでまたしても例のバンは突っ込んできた。原付が線ぎりぎりを辿っていなければ接触していたかもしれない危ない距離感。

(この野郎・・・)

悪癖が開放される。這い上がる怨念に身を委ねる。死して屍を拾うものはいない。

青は2台の本当のゴーサインだった。

加速の差は圧倒的でその差をいかにして稼ぐかが原付の生命線だった。

バックミラーを見る。おおよそ20mの差。猶予。

(性能の1割も引き出せていない無能が。スピードなら誰でも出せる。タイヤへの付加、ガソリンの消化速度。無駄の塊。無能が使えばどんな秀でた機械だってそれが入力装置である以上無駄なものでしかない。お前は俺が潰す。俺が潰す。俺が性能の差でなく洗練の差を見せてやる。覚悟しろ、嘲笑してやる。跪け、許さない。事故れ、○ネ。いらない、お前みたいなのはいらない。消えろ。その隣の車も後ろもだ。お前らなんでスピード守らねえんだよ、全員捕まえろよ、公僕ドモ。お前らは何やってんだ。お前らが表面の体裁なんてのを気にしてるから世界は汚染されて拡大していくんだよ。お前らがその鼻につく傲慢な態度の代償に、しなければいけない正義の振りかざしがあるだろう。…もういい、俺がやる。俺がやってやる)

悪癖は彼の生理的な嫌悪の発現により誘発される。

間違った正義。

暴発した不満。

あらゆるものの真価が閉ざされた世界への嘆きはしかし、間違っていた。


2台の差はずんずんと狭まっていきやがて、抜かされる。原付は前方からガードしてやることも考えたが一片の理性が彼を踏み留めた。

(直線、直線、次はカーブ。一車線になり道路がせばまっての急カーブ。そこで差は縮められる)

その前に原付には幸運が訪れた。

信号。赤。

ここで花屋のリードは奪われまたも白紙に戻る。

赤から青に変わる3秒手前、原付は始動していた。

急カーブ、さらに差は広まっていく。


車の運転手には最高時速30㌔規定である50ccを抜かさなければいけないという、使命感にも似た心理が適応されることは往々にしてあることだ。その軽バンのドライバーにもそれは適応された。先ほどからうろちょろしている目障りなスクーターをカーブからのストレートで一気に引き離そうとしていた。そのスピードは原付が60キロの限界で走っているのにいとも簡単に抜かされるほど。100m10秒台のアスリートと100m18秒の不健康ニートくらいの差だった。

予想外の追い越し、だが、原付は戸惑わない。

スピードは60キロの限界。引き離されていく。

やがて下り坂に差し掛かる。

またも信号は、赤。

原付には度重なる最後の幸運、最高の切り札だった。

軽バンは込みいっている直線への車線から右折への車線へと変更する。

原付は信号の30m手前通ろうと思えば先の軽バンでも通れるほどの隙間があるショートカットコースを潜り抜ける。

凹凸のある、再舗装の必要がるアスファルトを抜ける。軽バンは未だ信号待ち。

(勝てるか。まだ油断はならない。ここからは信号のない緩やかなカーブを交えた一本道だ。少しでも距離を稼がねば)

街灯の間隔は60m程。暗く対向車もいない道を原付は必要最小限の道を───時に対向車線に入りながらも───走り続ける。

バックミラーに閃光。

距離100m。

(いける)

かすかな希望と見え始めたビクトリーロード。

(ここを過ぎればT字路。奥には交番があるがどうでもいいことだ、やつらはいつも外界に目を向けず中の

部屋でゆるゆると時を弄んでいるだけだ)

(素晴らしいほどに醜い。なのにバランスだけは磐石。一体?)

歪んだミラーで横方を確認し一気に曲がる。左へ。

バックミラーで軽バンの行く先を確認。右へ。


哄笑。

ストレートに文にしてしまうにはあまりに醜い笑い声。




彼の行いは間違いだらけである。

彼はバランスを何よりも重んじる。

彼は汚いものが大嫌い。





なんだかかんとか厚生労働大臣の発言が問題になってるらしい。

事実を纏められた字面に踊らされているわけじゃない方々が批判するならまだいい。

彼は本意なるも虚偽なるも「言ってからすぐに失言だと思った」等と、反省の句を大衆に明示した。

それでも不満やるかたなしに梗概する政治色に関わらない一般市民はその騒動が国会の1つの政略にしか使われないことを知っているのだろうか。

知っているのだろう。

そして彼らは現在の政治を嘆きながらもどこかで希望を───何かしてくれる、何か起こしてくれる───持って見ていてるのだろう。

それは高尚な政治であっても腐敗した国会であってもいいのだ。

白でも黒でも光でも闇でも灰色でも蛍光グリーンでも何でもいいのだ。



国が民を壊しているのか。

民が国を歪めているのか。


求める対象として、求められるというだけの相互関係の意義は一体。





つうか政治ってなんなんだ。

深い意味はないが、この社会の底辺者に教えてください。




意味を求めるだけが真理ではない───




はい、そうですね。



じゃあ俺が今日、うんこを踏んだのことにも意味を求めることはしないよ。



でもだ。


しかしだ。


何故僕がうんこを踏まなくてはいけなかったのかという因果について考えるのは無駄ではないだろう。


人ではない(例外除く)犬とかフェレットとか時々、馬だとかいう畜生類の所業

猫や狸や狐ならまだ許すが彼らは経験上電柱周りに糞は残さないのである。

つまり、それを行うのは一部の人間と人間に飼われた犬なのである。

一部の人間と飼育されている犬たちにはおそらく問題はない。

それは生理現象であり自然の摂理である。

それら汚物が土に返りにくくなったのは摂理をゆがめた人間であり償う責任と義務は人間にある。

そして人間たちはローカルルールを決めた。


「犬のフンは持ち帰りましょう」


犬飼さん(犬を飼っている人、苗字ではない)なら一度は目にしたことがあるだろう看板に描かれた至極最もなルール。


一部の人間たちには怪しい人間として補導してくれる警官というものがいるように犬飼さんたちはこのルールを守るべきなのである。


意外なことにこれらを守らない人間というのはご年配の方々に多い様相を呈していることが近年、独自のリサーチから判明した。次に多いのが一人暮らしと思しき20代~30代の女性となっている。


政治や若輩者を嘆いたり、寂しさを愛玩生物で紛らわしたりするのは勝手だ。

だがしかし、公共である歩道や公園にフンを置き捨ててそれら自由を許すべきではないと私は思う。




最後に。

うんこは踏むものでもこねるものでも食べるものではない。

処理するものだ。

踏んでしまったときのことを、踏んだことのない人は想像して、思ってみて欲しい。

あの嫌な気持ちを想像して欲しい。

ぐにゃーって広がる瞬間をイメージして欲しい。

手に届かない政治やらを嘆くよりもまずは身近にある汚いものを掃除していこうではないか。



断じて日本を印度にしてはいけない!
















フォーーーーーーーー!!!


・・・って最近ようやく言えるようになりました。


どうも長い間人と会話というものをしないと高音ってのがでないね。

ま、今だってしてないですけどっ☆




公園に隣接する墓地。

いわくあり気なその特殊な雰囲気に近づく子供はいない。

朝陽と夕日が一日の始まりと終わりを告げる。

例外なくその場所にも。

誰もいない公園に終わりが告げられる。

返される言葉のない無人の公園。


───きっと、その場所は終わっていた


始まりは、

終わりは、

誰が決めるの?



新進気鋭の謎の覆面作家Kが織り成す叙情的な世界観を色づけるのは少年と犬と少女と猫。

隔絶された空間、”公園”を舞台に展開する全く新しい読書スタイル、覆面イズムを君は理解することが出来るか。




@@@@@@@@@@@@@@@




公園と墓地が隣接している摩訶不思議アドベンチャー的な空間を目の当たりにしてから3日目。

今日でそこ周辺での仕事は終わるのでここにくることはもうない。

昼。

休みの間その公園のベンチに座って一服しながら改めてその世にも奇妙な景観を観察する。

公園には普通の滑り台があり、普通のブランコがあり、普通のシーソーがあった。

遊具が少なく土地が広いため多少寂しい印象を受けるが特に目立つものはない。

強いてあげれば三角形な形をしている面積だってことくらいなもの。

ごく普通の住宅街にある公園だった。それ自体は。

その隣には墓地があった。

区切りも何にもなくその2つは繋がっている。

公園と墓地。

公園墓地というのはあるがそういうものとは何だが印象が違っていて、墓地が先か、公園が公園が先なのかって言う感じの・・・。

つまり、あまりにもその2つは食い違っていたのだ。

住宅街にあるし。ど真ん中の。都会でもないんだし。

3日間、僕はその公園で子供は見ていない。時期はずれにしてもお墓参りにきている人もいなかった。

寂しさを覚える反面その強烈な断層は現実感に乏しく魅惑的であった。

カラスが鳴く、2羽。

木々がざわめく。

時折聞こえる排気音が現実に引き戻してくれたおかげで僕は遅れることなく仕事場に戻ることが出来た。


とても不思議な空間であった・・・。



しかしもう一度行きたいとは思わない・・・。


なぜなら───


謝る勇気がなかったのでここでそこの公園さん及び管理者さんに申させていただきます。



今日、公園内のトイレでうんこしたの僕です。


流さないでごめんなさい。



言い訳ですが本当のことを話すので許してください。

朝、無性に粘つく口の中を牛乳とピルクルで洗浄しました。(歯磨いてませんデシタ、すいません)

おそらくそれがいけなかったのです。

現場につくなり僕はトイレを探しました。

迷わず公園のトイレを借りました。

ころころっとしたのがでました。

おかしい、この腹痛は間違いなく緩いヤツなんだけど・・・そう思いながら仕事場に戻ったら第二波到来。

すぐさま逆戻り。その時、

「あ、ティッシュもってくるの忘れた」

って思ったんですがもう間に合わないので仕方なく、なるべく腹回りを刺激しないようちょこちょことトイレに駆けていったのです。

第二波はホンモノで終わったあとは開放感がありました。

そこでようやくティッシュがないということを思い出しました。

知らぬとは幸せ、でしょうかね?

何度もとぼけて自分を欺く人って言うのは実に良い処世術をお持ちだと僕は思いますよ。

すいません、話が逸れましたね。

とにかく身体中まさぐって紙の代替物を探しました。

髪は同音異義語だし・・・。

服は敗れそうもない。

ポケットに四角い感触がありました。

本でした。文庫本の村上春樹作、世界の終わりとハードボイルドワンダーランド上でした。

読みかけでした。

100円で買った中古本ですが半分ほど読んでいて不思議と愛着がわいていたのでそれを紙として僕の菊の門にあてることはハルキストではない僕とてできることではありませんでした。

パラパラめくっていると本とは別の紙が目にとまりました。そう、しおりです。

ここでも謝らせてください。新潮文庫のしおり作ってる人ごめんなさい。

本に挟むものを人間のケツに挟んでしまってごめんなさい。

大勢の方々への冒涜があり僕は窮地を脱することができたんだ、と。

ぼくは感謝という謝罪でその罪を償うことにしました。

しかし現実はさらなる追い討ちをかけるのです。。。


【○月×日より水道管凍結防止により断水します】


え───。


( ・ω・)


不本意にもこんな顔をしていたかもしれません。

でもこれは僕のせいじゃないはずだ。そうだ、その通りだ。

そう自分に言い聞かせその場を風のように走り去りました。



天罰か、必然か。

第三波は突然やってきました。

今度はティッシュを持って公園へ。

ドアを開け放ってから思い出しました。

その惨状に。その罪に。

「僕はうんこをしてはいけないんだ」

「そう、おまえはうんこしちゃ、めっ」

和式便所がかわいくも凄みのある口で僕の慙愧の念に叱咤してくれました。

トイレはどうしても片付けることができませんでした。

周りに飛び散らかしたりはしてません。

ただ中身はそのままです。


公園さん、及び管理人さん。

本当にごめんなさい。

陳謝。