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トンポ・トンネ 日々イモジョモ

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その6・金昭子先輩の訃報(8月23日・木曜日)
 
 ポストを見たら、明日付け(8月24)の「朝鮮新報」が入っていた。昼食をとりながら、「新報」をめくっていくと、女性同盟中央の金昭子顧問の訃報が目に飛び込んできた。

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 何年か前、突然電話がかかってきた。
 「イルウトンム、キム・ソジャ覚えている?」
 「先輩でしょ。分かりますよ。今は愛知でしたよね」
 「イルウトンムだけ…先輩と呼んでくれるのは…」
××
 女性同盟中央本部の金昭子顧問は、東京チェーサムの8期生、私が15期生だから大先輩である。五年生の二学期に転校したので、卒業アルバムには載っていない。が、「私たちのチェーサム物語」を編むとき、「教室での懐かしい日々」を語ってくれた中の一人だ。

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 「物語」を開いてみると、二〇〇五年一〇月二四日、総連板橋支部の会館で、聞き書きに応じてくれている。文書化した原稿を確認するために、何度か会っている。訃報によると、享年七五というから、その時は六二歳だったことになる。いつも笑顔で、とてもおしゃれな女性だった。
××
 顧問が東京チェーサムに入学した途中から学校は、「都立」になり、鄭求一先生と共に、菊池という先生か担任になった。音楽の時間、日本の先生の後について「どんと鳴った 花火 きれいだな」とうたおうとすると、男子児童たちが「日本の歌なんか歌うな」と声が上げたと、話していた。東上線で通っていたが、満員でドアにたどり着けなかったり、電車とホームの間隔が開いていて、怖くてためらっているうちにドアが閉まってしまったりして、終点の池袋まで行ってしまい、毎日のように遅刻をしてしていたとか、日本の祭日の時、学校に行くのが嫌だったことなどを、よく覚えていた。登校途中、近所の子どもたちに「チョーセン、チョーセン、チョーセン学校ぼろ学校」とか、「チョーセンの先生は一たす一も知らないで、黒板叩いて泣いている。ブーブーブー」とはやし立てられたことなどを、五〇年もたつのに覚えているのは、「それほど繰り返し言われたからでしょう」と、悲しそうに話していた。

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 学校で催された、一、二、五年担任の鄭先生の結婚式での出来事も覚えていた。
 …鄭先生の腕に手を添えて、チマチョゴリで入場するお嫁さんの姿が、とても印象に残っています。何しろ男女が手を携える姿は、おそらくこのとき初めてだったからでしょう… 
 おしゃまな女子児童だったようだ。
××
 それから何年かして総連中央の副議長兼女性同盟中央の委員長になった後も、大会場などで目が合うと、「イルウトンム」と親しく声をかけてくれた。
 「先輩…さすが小学校の頃から、金日成将軍の勇姿にあこがれていたから…これからは先輩ではなく、副議長同士と呼ばなくては…」
 金昭子顧問は、「先輩と呼んでくれるのはトンムだけだから、これからも…」
 聞き書きをした時、朝鮮戦争当時、鄭先生や三、四年担任の李同燮先生がよくする金日成将軍の話を聞いて「幼な心にはっきり刻まれた」と話していたからだ。
 金顧問と言えば、もう一つ思い出すのは、署名運動の話だ。
 …放課後はよく上級生に連れられて大山駅で署名運動をした…何かに『反対』したのでしょうが、その内容は記憶にありありません…
 そして「私の『署名運動』はこのときからはじまった」と、「帰国協定の締結」と、その無修正延長を求める署名、祖国への自由往来を求める署名、「外国人学校法案」の廃止を求める署名、指紋押捺に反対する署名、金大中釈放を求める署名、駐韓米軍の撤退を求める署名、祖国統一を求める署名…。「今考えても、たくさんの署名を集めたものです」と、それでも楽しそうに語っていた金昭子先輩の姿が思い浮かぶ。
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 何年か前の電話は、「目が悪くなって本が読めなくなった」というものだった。『朝鮮学校のある風景』の定期購読者でもあった。
 「それでは『風景』を送らないようにします」と言いかけると、「あと、一年分は振り込むから」との先輩らしい配慮の言葉が戻ってきた。
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 訃報によると、女性同盟の愛知県本部の委員長として赴任する前、板橋支部、豊練支部と東京都本部で活動している。「物語」の聞き書きをした時は、愛知に赴任する前だったようだ。
 母校の新校舎建設の知らせは届いたのだろうか、「イルウトンム」、あの優しい声が聞こえなくなったと思うと寂しい。合掌。
 
*加筆して『朝鮮学校のある風景』51号に載せます。