「マトリョーナの家」ソルジェニーツィン より。 | よろぼい日記

よろぼい日記

杖ついてやっとこさ歩いてバタンキューの毎日。食べれない。喋れない。わからない。死にそう。どん詰まりのあがき…………か。それとも死に欲かな?

 

ガザを思うあまり、どうしていいかわからなくなって途方に暮れる。

 

そういうときふと「マトリョーナの家」を想い出し、どこにしまったのか?

 

死をひかえ何から何まできれいに整理しているので、図書館から借りてこようかと思って、ふと、机の下を見ると、ソルジェニーツィンの本がたくさんあって、その中に「マトリョーナの家」(木村浩訳)の文庫本が紛れ込んでいたのである。

 

 

1の書き出しはこうである。

 

 

●1953年の夏、私はほこりっぽい炎熱の砂漠の中から、ただロシアへというほか、何のあてもなく帰還の途につこうとしていた。

ロシアのどんなところにも、私を待ってくれている人も、呼んでくれる人もいなかった。

何しろ、私の帰還は十年あまりも遅れていたからである。

私はただなんとなく中部ロシアへ行きたかった。そこでは炎熱もなく、森の木の葉の囁きが聞こえるにちがいない。もしまだロシアのいちばん奥深い懐といった土地が、まだどこかに存在し、息づいているのなら、何とかそこへもぐりこみ、その中へまぎれこんでしまいたいと願っていた。●

 

 

涙もろくなっているせいもあるが、何ということだろう!1行読むごとに、涙にむせんでなかなか先に進むことが出来ない。400字で114枚を2日がかりでようやく読み終えた。

 

 

 

60歳のマトリョーナはボロボロの家にひとりで暮らしていて、粗末なものしか食べてはいないがしあわせそうだ。

ボロボロの家の中2階の材木をむしり取った戦争前の婚約者に橇で運ばれているとき、途中まで運んでやっていると、バックしてきた機関車に轢かれて死んだ。

 

それらのことをソルジェニーツィンはこう締めくくる。

 

 

●私の前には、同じ屋根の下に暮らしながらも、ついに私が理解することのできなかったマトリョーナの像が、浮かびあがったのであった。

 

たしかに、そのとおりだった!――どこの農家にも豚はいる!が、マトリョーナの家にはいなかった。

この世で食べることしか知らない豚――それを飼うこと以上に楽な仕事があろうか!

日に三度、食べものを煮てやり、豚のために生き――あげくのはてに屠殺して、脂身を自分のものにする。

 

だが、マトリョーナは、何も自分のものにしなかった・・・

 

家財を揃えようともしなかった・・・品物を買い、そのあとで、自分の命よりもそれを大事にするために、あくせくすることもなかった。

 

きれいな服をほしがろうともしなかった。醜いものや悪しきものを美しく飾り立てる服を。

 

自分の夫にすら理解されず、棄てられたひと。六人の子供をなくしながら、おおらかな気持ちをなくさなかったひと。妹や義理の姉たちとちがって、滑稽なほどばか正直で、他人のためにただ働きばかりしていたひと――このひとは、死に臨んでもなんの貯えもなかった。

 

薄汚れた白山羊と、びっこの猫と、ゴムの樹・・・

 

われわれはこのひとのすぐそばで暮らしておりながら、だれひとり理解できなかったのだ。このひとこそ、ひとりの義人なくして村はたちゆかず、という諺にいうあの義人であることを。

 

都だとて同じこと。

 

われらの地球全体だとても。