酒のブログ -2ページ目

酒のブログ

ブログの説明を入力します。


酒のブログ-慶生院

旧慶生院の門


酒のブログ

現在の慶生院門


酒のブログ-慶生院入口
提新亭

酒のブログ-玉湖神社
玉湖神社(たまのうみじんじゃ)


酒のブログ-堤心亭

上・ずい道入口


今日は、堤防北側・慶生院の門から、周囲道路村山方面に行った遠い昔のことをご紹介します。今から50有余年前、貯水池堤防手前のカーブから、この門の前辺りまで舗装道路、一方所沢線は、その後出来たおとぎ電車のガード下まで舗装されていて、各々,それ以南、以西、以北は砂利道でした。雨のあとは、大きな水たまりがいたる所に出来、当時数少なかった車両通行時は、あわててその場所から、「車が来た」で逃げたものです。一番多く通った車は、西武線玉川上水駅北側・直前にあった、立川基地の将校の宿舎からの将校家族の慰安ドライブでした。必ず助手席には妻君、子供は後部席。いつしか、こんな車に乗りたいなー、でも無理だろうなーが、当時の結論だったと思います。


 さて、この道路は、12月から翌年2月頃にかけ、くず掃き(落ち葉掃き)のリヤカーで朝は8時ころから、西(今のカタクリの湯)方面へ、また帰りの3時以降は、2つの大きな竹篭(確か、八本羽又は八本びねとか、八本ばさみと呼ばれ、蚕の桑入れ用に作られたとかで、径が120センチ高さ150センチ位)に、理科の実験で習った表面張力を、思わせるような山盛りの落ち葉を乗せ、帰路の、リヤカーの列が延々とつながっていたものでした。



酒のブログ

八本ばさみ


 又篭の上には、採取した枯れ枝をさらに乗せ、帰宅の後は、風呂の炊きつけなどに利用したものです。今ではあまり見向きもされない、落ち葉ですが、そのころ、大げさに言えばけんか沙汰、家畜の糞、人糞は、もちろんのこと、この落ち葉はこの上もない、貴重な肥料資源でした。


 当時は、上北台公民館の講座で習ったとおり、村から町制移行した間もなくの頃、人口は、12~13千人の横ばい状態、土地は確か,一反・10万円位、高度経済成長、土地ブームの前の時代でした。

 

 くろがねに代表される三輪自動車は無論のこと、ミゼットもなく、農家の輸送手段は、全てリヤカーでした。くず掃きの場所は、堤新亭前をとおり、どろっ富士・玉湖神社の北側をぬけて、少し行った左側の所にも、年によってはありましたが(右・狭山湖側は、所沢市の農家)、遠くは周囲道路をさらに西へ、かみ・ずい道の入り口を左折、坂を下り、トロッコ列車(軽便鉄道)の跡地までの道のりでした。この下あたりに旧慶生院があったそうです。貯水池の建設以前の慶生院への行き方は、推測ですが、村山境の大橋から北へ上り、北斜面を降りて行く道順ではないか思われます。くず掃きの始めは篠などの小さい草の下刈りや枯れ枝の除去でした。一番疑問に思った点は、リヤカーのおいた地点からのより下の掃き方。掃き終る下まで一旦降りて、上へ掃き上げるのではなく、その逆の上から下へ掃く手法。下から米一表近くあろう、50数キロもの篭を背負い、立ち木を杖代わりにつかみながら、山肌を登る作業で大変な重労働でした。


 父は、立川基地のフインカムと言う部署に勤めていたサラリーマンで、民間企業は日曜日のみ休日でしたが、当時から、土日休みの週休二日制でした。この休みの2日間を利用し、くず掃きをしていたわけです。私は、小学校の低学年のおり、このくず掃きのリやカーのあと押しを母と一緒に手伝わされました。母の服装は、手ぬぐいに、上っぱり、もんぺに、地下足袋姿。戦後10年位たっていたと思われますが、昼過ぎ後押しに行く、往路の際、その当時、外地から、片腕やひじから下のない人、片足で松葉杖の人などの旧日本兵の引揚者が白装束の姿で野宿のためか、山口方面の物乞いの帰りか、定かではありませが、たむろしてたり、歩いてしていました。一言で言うと、薄気味悪いが当時の印象です。小学生としては、リヤカーの後押しは微々たるものであったでしょうが、母にとっては大きなボデーガードであったのではないかと思われます。(続く)