雨後の筍

雨後の筍

ほとんど練習帳。

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少子化対策が国会で議論されている。空理空論になっていないと信じたい。政治家は、我々にはマスコミを通して表面的な評価しか伝わらなくて、答弁のうまさやルックスで判断されてしまう。機微に触れる裏方での仕事や計り知れない重圧の中での判断など、プレゼンテーション以外の面で評価される部分がたくさんあるだろう。少子化問題も、多くの頭の切れる政治家によって少しでも良い方向に転ずることを望む。

とは言え、机上で子どもを増やすことを考えるのと、実際子どもを育てるのには大いに隔たりがあるだろう。私は子どもを持ったことがないし、今後も当分は持てそうにないので、実際どうなのかは分からないが、街中で子どもを連れているお母さんを見て、子どもを持つことは大変なことだと思う。一日中世話をしないといけないし、なかなか出かけられないし、出かけたら出かけたで所構わず泣くし・・・。

電車や飲食店で泣く子どもをよく目にする。子どもと言うより赤ちゃんと言った方がいいかもしれない。母親はそんな時どう対応するだろう。周囲に大してすごく申し訳なさそうに子どもを叱ったりなだめたりする人、苛つきながら叱り飛ばす人、子どもは泣くもの、と何もしない人。周りはある程度、子どもを連れて歩くお母さんに対して寛容であるべきだと思う。しかし、人間、相手の対応一つでどうとでも思ってしまえる便利な能力を持っていて、周りに気を遣いながら子どもを叱る母親を見ると、「子どもは泣くもんだから仕方ないのよ」という視線を送れるし、逆に何もしないと「ちったあ、申し訳なさそうな顔をしなさい」と思うだろう。

別に母親に限ったことではない。ほんの少しだけ演ずるだけで自分も周りも気持ちよく過ごせるのではないか。上辺を取り繕っているだけでは駄目だけれど、上辺も取り繕えないような人はどんなに崇高なことを考えていても信用されない。冒頭の話にも通じるところがあって、いかに裏方の仕事に優れていたとしても、目立つところで良いと思ってもらえなければ政治家も信用されないのだ。

閑話休題。女の幸せは多様だと喧伝される社会にあって母親業に専念できる女性は心から素晴らしいと感じる。あるいは主婦業に専念できるのは、恵まれた家庭だけで、本当は主婦業に専念したいけど、働かざるを得ない女性もいるだろう。多様な幸せというのは、実は、そんな女性を納得させるためにも存在する言葉なのかもしれない。