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△萩博物館前
3月26日、萩城下です。
萩には萩城跡や武家屋敷、町家などの江戸時代の町並、歴史的景観がそのまま残っています。
萩は瀬戸内海側からはいくつもの山を越えないといけない陸の孤島のようなところに位置します。
それであるがゆえにここだけが今でも江戸時代の続きであるような、そんな町なのです。
 
博物館には松陰や晋作に関する資料が展示されています。
 
萩の人々は、吉田松陰を「松陰先生」と崇拝し、高杉晋作には「晋作」と呼び捨てて英雄のように称えます。
数々の人材を生み出したこの町でも、二人は別格扱いのようです。

 
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△高杉晋作生家
「本名を春風と言います。晋作は通称なんですよ。芸名みたいなものですね」生家前で人力車を引くお兄さんが観光客に説明していました。
松陰の墓で出会ったおじさんもそうでしたが、萩の人は親切で、言葉使いやアクセントがきれいに聞こえます。
晋作の死後、ファンの人が個人的にこの家を購入したそうです。
敷地に入り、邸内を見学させていただきました。
 
天保10(1839)毛利家に仕えてきた名門高杉家に生まれ、8歳の時に松下村塾に入りました。
嘉永5年(1852年)師・松陰の死に、悲しみと幕府への激しい怒りに打ち震えた高杉晋作は、倒幕を心に誓ったと言われています。

 
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△桂小五郎(木戸孝允)生家
晋作の生家のすぐ近くに位置します。
この屋敷は座敷に上がることができ、屋内をじっくり見学させていただきました。
小五郎「誕生の間」なども昔のまま保存されています。
 
桂小五郎は吉田松陰に兵学を学び、また門人の礼をとリ続けていたそうです。
後年、彼は龍馬があっせんした薩長同盟の長州側リーダーとなった他、維新後も新政府の重要な要職に就き、西郷隆盛と大久保利通と共に「維新の三傑」と言われました。
 
萩の町を歩いているうちに午後2時をすぎてきました。
さて、どうしようか。このまま帰るか、それとも・・・。
ここで、帰りに晋作が活躍した下関に寄ることを決断しました。ちょっとしんどいけど・・・