心理学がいう本能には、遺伝された傾向があまりにも大きな場所を占めているからである。同様に行動主義の条件づけや反応にも同意することができない。本能や反応から個人の運命と性格を構築することは、このような動きが向かっていく目標を理解しなければ無益である。これらの心理学はどちらも他人の目標という見方を考慮に入れていないのである。「意識」と「無意識」という言葉を別の要素として使うことは正しくはない、と個人心理学では理解している。意識と無意識は同じ方向へと一緒に進んでいくのであり、しばしば信じられているように、矛盾するものではない。その上、意識と無意識を区別するはっきりとした境界線はない。両者の一致した動きの目的を発見することだけが問題なのである。文脈の全体が得られなければ、何が意識されていないかを決めることは不可能である。この文脈は、原型で分析した人生のパターンの中に現れる。いくつかの症例を見る事が意識と無意識が本質的に連関していることを例示するのに役立つだろう。数多くの症例を見る事でバランスも取れてくる。


普遍主義の信念が主張しているのは、ある視点が別の視点よりも優れているということ、そしてその主張の正しさは、当初懐疑的な態度をとっていた者との討論を通して検証できる、ということである。共和主義の理論は、世界のどこかに文脈超越的な立脚点があるなどと主張していない。またそれは、中立性の名で偽装した、特殊で偏狭な見方を押しつけているのでもない。むしろそれは、さまざまな観点が顧慮され、真正に理解されたあとで示される、公益を根拠の批判は、このアプローチを非現実的で的外れだとして拒否する。しかし反対論が根拠においている範曉や、表明している信条は、じつは共和主義の理解から借用されたものである見込みが高そうだ。たとえば個人と集団の自律領域は、なんらかの理由にもとづいて擁護されなければならない。それを前政治的なものとして正当化してはならない。またその批判が説得力をもつためには、熟議や普遍主義などの共和主義的観念を組み入れなければならない。実際、「不利な状況にいる集団」という観念(これは共和主義的な普遍主義像への批判の中心的論拠とされる)自体、「不利な状況」という言葉の理解への信条や、当初懐疑的だった人との討論によってこの理解が得られるという信念に根拠をおいている。

ある都市が大選挙区制と長期の任期を擁護したのは、一定範囲の選挙人団内部にある、極化タイプの力を抑制する一つの方法としてであった。ロールズが、一定範囲の人々の討論によって「情報を結びつけ、議論の幅を広げる」ことの必要性に言及するのは、まさに同じ意図からである。組織としての機能が損なわれるのは、多様な意見を俎上に載せることができなかった場合である。そして、異質混交が防ぎうるのはまさにこのような傾向なのである。ハミルトンとロールズの言葉を実際的に擁護する一つの方法がある。この見解によると、ハミルトンやロールズは、経験的現実を無視した無邪気な熟議の狂信者ではない。そうではなく、彼らが力説するのは、異質混交の長所と、熟議を行う人たちの前に示される多様な議論の蓄積の長所なのである。実際、これは上下二院制の内部で生じる「党派の対立」に関するハミルトンの主張であった。ハミルトンが主張したのは、「多数派の暴走を抑制」するプロセスである。この暴走も、いろいろな現象にてらして再解釈できるのである。