ブログを初めてみようと思い立ったのは、本好きさんと知り合えたらな~
という気持ちからです。
誰にも伝えずに始めるので、フォロワーなんてつくのかとても不安ですが、取り敢えずやってみます。
よく本を読むようになったきっかけは、中学の教科書に載っていた芥川龍之介の羅生門に衝撃を受けたからでした。
その辺りから書きます。
天変地異が立て続けて起き、不況の最中の平安時代。職を失ってしまった男が荒廃した羅生門の下で途方に暮れていた。
いっそのこと盗賊にでもなろうかと逡巡するも、悪いことをする度胸も勇気も持ち合わせていない。
そんな時、羅生門の上から人の気配がする。
興味本意で上がってみると、打ち捨てられた大量の死体があり、そこから髪の毛を引き抜いている老婆の姿があった。
それを見た男は怒りを感じ、刀を抜いて老婆に詰め寄る。
『自分には髪の毛を売るしか生きる術がない。この死体は悪人で生前は人を騙していた。自分の行いに対して文句は言わないだろう』と言う老婆。
それを聞いた男は老婆の衣服を剥ぎ取り『自分も同じ境遇だ』と言い残し、漆黒の闇に消える。
男の行方は誰も知らない。
実はこの小説、発表当時はラストが少し違い、男は盗賊になるという結末だったということです。
死体から髪の毛を引き抜き、それを売って食い扶持にするしかない憐れな老婆の衣服を剥ぎ取る男の短い物語。
物語のその後や内容について私なりに考えてみました。
死体の散乱した門の上で老婆が死体から髪の毛を引き抜いている様を想像すると、完全にホラー映画のワンシーン。私なら取り敢えず逃げ出します。
しかし、男は逃げ出さずに老婆に詰め寄る。死者への冒涜は人類が文化的な生活を始めた頃からはどこの地域でも大罪とされています。
男はホラーな場面を目撃した恐怖よりも老婆の行為を止めさせるという正義感を強くもったと思われます。
しかし、正義から一転、ひどい仕打ちを老婆に対して行う。ここにはどういった心理があるのでしょうか。
老婆は死体の髪を抜いている。衣服や装飾品ではなく髪です。
それは無数の死体からはめぼしい物は既に奪われたあとだったからではないかと私は思います。
衣服を剥ぎ取れば、憐れ老婆は、裸で都を彷徨うことになり、飢えや(季節によっては)寒さで死んでしまう可能性もあったでしょう。
すなわち、男はその後の老婆がどうなっても構わないと思い行動を起こしたと推測されるのです。
これは、まともな人間の所業ではないですね。
死者に対して非道徳な酷いことをしている老婆はこう言い訳します。
『生前は詐欺師だったこの死体は文句を言わないだろう』
目茶苦茶な理由で自分の行いを肯定します。
老婆の理論が正しいとするなら、『老婆が死体にしていることを自分が老婆にしても文句は言わない』という解釈が男の中で成り立ったわけですね。
ちょっとずれてますが、『盗人にも3分の理』ってやつでしょうか。
男は罪を犯す理由付けを老婆から与えられ、180度考えが変わるわけです。
『平家物語』が出展の昔話に『羅生門の鬼』というものがあります。
同じく平安時代。源頼光が四天王を引き連れ、都を脅かす鬼の酒呑童子を退治しました。そのあとの酒席で『羅生門に鬼が出る』という話になります。
四天王のひとり、渡辺綱が羅生門に出向き、鬼の腕を切り落とすも取り逃がし、後日、腕を奪い返されるという物語です。
羅生門は鬼の巣食う場所だったということですね。
現在の日本でも悪人のことを『鬼』と比喩的に言うことは多く、死体の打ち捨てられた羅生門は人が鬼になってしまう穢れた場所であったということも心境変化の理由ではなかったのか?
ということです。
男は羅生門に漂う邪気の様なものにあてられて、血も涙もない行為に及んでしまったのかもしれません。
戦争などで敵を撃ち殺す兵隊も、何の罪もない非戦闘員を手にかける兵隊も戦時でなければ、人殺しなんてしない善良な人が圧倒的に多いわけです。
邪気にあてられ、人間らしい良心を捨て、羅生門に巣食う鬼のひとり(一匹?)になってしまった男は漆黒の闇に消えた。
人が鬼になる様を描いた傑作小説。
私は羅生門をそう解釈しています。
という気持ちからです。
誰にも伝えずに始めるので、フォロワーなんてつくのかとても不安ですが、取り敢えずやってみます。
よく本を読むようになったきっかけは、中学の教科書に載っていた芥川龍之介の羅生門に衝撃を受けたからでした。
その辺りから書きます。
天変地異が立て続けて起き、不況の最中の平安時代。職を失ってしまった男が荒廃した羅生門の下で途方に暮れていた。
いっそのこと盗賊にでもなろうかと逡巡するも、悪いことをする度胸も勇気も持ち合わせていない。
そんな時、羅生門の上から人の気配がする。
興味本意で上がってみると、打ち捨てられた大量の死体があり、そこから髪の毛を引き抜いている老婆の姿があった。
それを見た男は怒りを感じ、刀を抜いて老婆に詰め寄る。
『自分には髪の毛を売るしか生きる術がない。この死体は悪人で生前は人を騙していた。自分の行いに対して文句は言わないだろう』と言う老婆。
それを聞いた男は老婆の衣服を剥ぎ取り『自分も同じ境遇だ』と言い残し、漆黒の闇に消える。
男の行方は誰も知らない。
実はこの小説、発表当時はラストが少し違い、男は盗賊になるという結末だったということです。
死体から髪の毛を引き抜き、それを売って食い扶持にするしかない憐れな老婆の衣服を剥ぎ取る男の短い物語。
物語のその後や内容について私なりに考えてみました。
死体の散乱した門の上で老婆が死体から髪の毛を引き抜いている様を想像すると、完全にホラー映画のワンシーン。私なら取り敢えず逃げ出します。
しかし、男は逃げ出さずに老婆に詰め寄る。死者への冒涜は人類が文化的な生活を始めた頃からはどこの地域でも大罪とされています。
男はホラーな場面を目撃した恐怖よりも老婆の行為を止めさせるという正義感を強くもったと思われます。
しかし、正義から一転、ひどい仕打ちを老婆に対して行う。ここにはどういった心理があるのでしょうか。
老婆は死体の髪を抜いている。衣服や装飾品ではなく髪です。
それは無数の死体からはめぼしい物は既に奪われたあとだったからではないかと私は思います。
衣服を剥ぎ取れば、憐れ老婆は、裸で都を彷徨うことになり、飢えや(季節によっては)寒さで死んでしまう可能性もあったでしょう。
すなわち、男はその後の老婆がどうなっても構わないと思い行動を起こしたと推測されるのです。
これは、まともな人間の所業ではないですね。
死者に対して非道徳な酷いことをしている老婆はこう言い訳します。
『生前は詐欺師だったこの死体は文句を言わないだろう』
目茶苦茶な理由で自分の行いを肯定します。
老婆の理論が正しいとするなら、『老婆が死体にしていることを自分が老婆にしても文句は言わない』という解釈が男の中で成り立ったわけですね。
ちょっとずれてますが、『盗人にも3分の理』ってやつでしょうか。
男は罪を犯す理由付けを老婆から与えられ、180度考えが変わるわけです。
『平家物語』が出展の昔話に『羅生門の鬼』というものがあります。
同じく平安時代。源頼光が四天王を引き連れ、都を脅かす鬼の酒呑童子を退治しました。そのあとの酒席で『羅生門に鬼が出る』という話になります。
四天王のひとり、渡辺綱が羅生門に出向き、鬼の腕を切り落とすも取り逃がし、後日、腕を奪い返されるという物語です。
羅生門は鬼の巣食う場所だったということですね。
現在の日本でも悪人のことを『鬼』と比喩的に言うことは多く、死体の打ち捨てられた羅生門は人が鬼になってしまう穢れた場所であったということも心境変化の理由ではなかったのか?
ということです。
男は羅生門に漂う邪気の様なものにあてられて、血も涙もない行為に及んでしまったのかもしれません。
戦争などで敵を撃ち殺す兵隊も、何の罪もない非戦闘員を手にかける兵隊も戦時でなければ、人殺しなんてしない善良な人が圧倒的に多いわけです。
邪気にあてられ、人間らしい良心を捨て、羅生門に巣食う鬼のひとり(一匹?)になってしまった男は漆黒の闇に消えた。
人が鬼になる様を描いた傑作小説。
私は羅生門をそう解釈しています。