斉藤明美さんは昭和31年高知県生まれ。高校教師、テレビ番組の構成作家を経て週刊誌の記者を20年務め、2009年に松山善三・高峰秀子夫妻の養女となり、二人を看取りました。その斉藤さんの言葉。

(松山善三と高峰秀子)

 『人が潔くないのは欲しいものがあるからです。お金、名誉、他人に好かれたい、綺麗だと思われたい、良い人だと思われたい。だから普通の人は潔くありません。

 高峰は欲しいものが無いから人にどう思われたってかまわない。だから高峰は非常にかっこよかった。

 女優を辞めてからは、大きな家は必要無いと言って家を壊して小さな家を建てて住みました。50歳ぐらいから全部削ぎ落していきました。

 高峰秀子は、70代の終わりになったら外に出るのも辞めて、本を読み食事を作るという事に専念しました。もともとそれを望んでいた人でした。

 父ちゃん(松山善三)がいなかったら紙のコップとお皿で済ましていると思う。父ちゃんがいるから綺麗な焼き物のお皿に美しい料理を盛るけれど、一人だったらそんなことはしないと…。

 高峰は松山が大好きで、松山は誠実が洋服を着ているような人。そこが好きですと言っていました。

 高峰は自分のことを美人とは思っていなくて、自分を馬鹿だと思っていました。

 つまり学校に行っていないからでした。

 毎日本を読んでいるので、どうしてそれほど読むのかを聞いたら、「劣等感ですね」と言いました。

 高峰秀子は、2010年87歳で亡くなりました。すべてが終わったと思いましたが、高峰秀子が亡くなった時には松山善三がいてくれたことで、ちゃんとしなければいけないと思いました。

 松山とその後6年暮らして、どうして高峰はあれほど松山が好きだったのかという事がわかったような気がしました。

 松山は、人を幸せな気持ちにしてくれる、そばにいるだけで心が温かくなるような人。高峰秀子はずっと戦って来た人だから、松山善三のなかに楽園を見たのだと思います。』

 高峰秀子と松山善三の言葉

 「母ちゃんは小さい時から働いて、働いて…だからきっと神様が、可哀そうだと思って、父ちゃんみたいな人と逢わせてくれたんだね」
 「父ちゃんはハンサムだからね」
 「父ちゃんは子供の頃、あだ名が『キュウリ』だったんだって」
 「僕はボーっとした子供で、頭も悪かった。いつも友達に苛められてました」
 「でも父ちゃんは兄弟の中で一番偉くなって、お父さんに家を建ててあげたのよ。結婚する時は夢のようでしたよ。私みたいなノータリンでいいのかしらと思った」
 「我慢の向こうには必ず笑いがある、幸せがある。必ず期待するものが見えるはずだと僕は信じてます。何をやってでも僕は母ちゃんを養っていきます」

 高峰秀子さんと松山善三さんの素敵な生き方を知り、明日への勇気をもらいました。