つづき。



気が付けば、リリカルと僕は木星のプラットホームにいた。

電車は代々木駅の方からゆっくりこちらに向かってきた。雨はあがっていたが、電車のあちこちに水滴がついていた。その水滴は人ごみの中で必死に迷子になりまいと親にしがみついている子どもに見えた。どうせ、田端あたりでみんな吹っ飛んでしまうというのに。

4号車の3番ドアから僕らは乗車した。僕らの他にその車両に乗り込んだのは、仕立ての良いスーツのジャケットを右手に持ち、左手は茶髪に染めてヴィトンのバッグを左肩にかけた背の低い女の右手を握っている背の高い男の他に4人いた。その男はサングラスを外し、僕と一度目が合い、その後リリカルと視線を交わし、お互いに会釈した。それは至極事務的であり、木星独特の儀式のようで、そこには僕が入り込む余地などこれっぽちもなかった。僕はなにか居場所が悪かったが、別段気にした素振りも見せなかった。


家に着く頃にはもう太陽がベッドから出ていた。太陽は服を纏わず、裸で僕らに光を与えていた。今日は暑くなりそうだった。そう感じるほど、太陽は元気だった。


「アイム・ファイン・センキュー・アンド・ユー」

「アイム・スリーピー。シーユー・トゥモロー」


そう言い合って、僕は家のドアを力なく開けて、部屋に入った。


「きれいな部屋ね」


僕は23度に設定されているエアコンのスイッチを押し、昨日の夕方雨が降っていることを確認した20センチくらい開いたカーテンを閉めながら、そんなことない、と答えた。



彼女は部屋を見渡して、7畳しかないスペースに置いてあるいくつかの家具を触り、CDの棚で足の動きを止め、物色し始めた。僕はフィルターの付いたタバコを吹かしながら、冷蔵庫に行き、ペットボトルに入った水をそのまま口をつけて飲んだ。それは口、舌、のど、食道をしかっりと冷やしながら、そしてゆっくりと胃に入っていった。肉体的に生きている感じがする瞬間な気がした。死ぬときもしっかりとゆっくりと冷たくなる感触が自分で感じることができるのかな。


「なにか飲むかい」



返事が無かったので、僕はビールの缶を2本取り出し、部屋に戻った。


「アール・ボスティックが聞きたいのだけれど」


いいよ、と目で合図して、ケースからCDをだし、小6から愛用しているヴィクターのスイッチを入れた。


ドゥ、トゥー、トゥ、トゥルトゥン・トゥルトゥン、ドゥ、トゥー、トゥ、トゥルトゥントゥルトゥン・・・。


彼女はフィルターのないタバコに日を点けながら、窓を少し開けた。その風はじめじめしていて温かった。新鮮というにはあまりにもかけ離れた、嫌われ者の風。嫌われ者かもしれないけど、きっとこの風を好きな人もいるかもしれない。そう思いながら、僕はこの曲に合わせて踊りだした。


彼女は吹かしながら、顔に笑みを浮かべ、声を出して笑い出した。


僕が踊り、アール・ボスティックが部屋に流れている。おそらく、リリカルと僕のイメージは一致しているのだろう。僕も声に出して笑いながら、ステップを踏み続けた。


ドゥ、トゥー、トゥ、トゥルトゥン・トゥルトゥン、ドゥ、トゥー、トゥ、トゥルトゥントゥルトゥン・・・。


つづき。



彼女は寝起きのような目の開き方、そしてふらふらと飛んでいるモンシロショウでも見るかのような目線で、僕の本をパラパラとめくった。最後に、もう一度表紙を見て、僕に返した。


「ラディゲを読んでいる人とは友達になれそうね、あなたは何を専攻しているの」


僕はその本をさきほどまで見ていたページに戻しながら、英文学、と一言答えた。


「英文学…なのに、フランス文学を読んでいる」


「別に意味はないよ。ラディゲも読むし、ガルシアマルケスも読む。なんなら、魯迅も読むし、漱石も読む」


「なるほど」


そう言うと、彼女は僕の顔を覗き込んだ。


そこ静かにしないか、授業中だぞ、教授は僕たちの方を見てマイク、スピーカー越しに注意した。マイクを通すことによって、口の動きと少し遅れて音が届くことが、なぜかそのときオモシロかった。

他の学生がこちらを見る。そんな大勢の人に見られたことはなかったので、居場所が悪く、僕は少し、恥ずかしくなった。

彼女のほうは、その顔に軽い笑みを浮かべ、軽く手を上げて、教授の注意を軽くあしらっていた。すべてが軽かった。それが第一印象だった。

そして、チャイムが鳴った。


僕は静かに机に広がった教科書、ノート、ペンを鞄にしまい、席を立とうした瞬間、彼女が相変わらず大きな声で一言なにか言った。僕は意識が緊張していたので聞き取ることが出来なかった。そして、それを悟った彼女はもう一度同じトーン、同じヴォリュームで言った。


「ごめんね、恥をかかせちゃって」



「慣れてはいないけど、大丈夫。この授業はもう出ないと思うし」


「なるほど。でもまたどうして」


「哲学はあまり僕の血に合わない」


「僕の血…僕の血…僕の血」


彼女は一度飲み込んだ言葉をまた口まで持ってきて何度も噛んでいるようだった。まるで、牛が一度食べた草を何度も食べるような反芻動作のように。


「学食でご飯でも食べない」


知らない女性に誘われるのはほとんど初めてだったので少し脳が凍りついたが、僕は一度だけ縦に首を振った。

そして、僕たちは教室を出た。


学食まで歩きながら、僕たちは名前を交換した。

「私はラウラ・イシハラ。父がドイツ人、母が在日韓国人3世」

「僕は岡井セクノ」

言われてみれば彼女の顔は鼻が高く、目も大きく、江戸時代に書かれた浮世絵のような日本人特有の目ではなかった。身長も高く、すらっとしていて、モデルのような体系だった。そう思うと、歩き方もモデルのようにみえた。とにかく、きれいだった。万人がきれいと認めなくても、彼女が持ち合わせていたパーツはすべて彼女の存在に適していて、見ているこっちが少し羨ましくなるほどだった。


「オカイセクノ」

「オカイが苗字で、セクノが名前。岡井セクノ」

「岡井セクノ、岡井セクノ、岡井セクノ」


彼女はうれしそうにまた言葉を反芻した。

つづき。


僕は大学に入ってすぐに、生まれてはじめての彼女が出来た。東京にはたくさんの人がいるので、こういうこともあると思ったが、自分を好きになってくれる人が本当にいるんだなと改めて感じた。別に女性に興味がなかったわけではないが、中学校全体で30人しかいない、山の麓にある学校で好きな人を作る方が難しいし、第一みんな小さい頃からの顔見知りで、家族みたいなものだった。この小さなコミュニティーが嫌いだった僕は、休日は本を読んで過ごした。なんせ、毎日同じ顔を見るのだから、8歳になるときにはもう見飽きていた。
本は僕にたくさんの経験をさせてくれた。特にデイブスリッチーの作品を好んだ。ほとんどの作品が都市を舞台にしている。中でも、ニューヨークの浮浪者を描いた『ルーザー』は傑作である。彼は黒人の浮浪者に空を飛ばせた。そして彼はカラスになった。カラスは最後に言う、浮浪者のがカラスよりマシだ、なぜなら空を飛べないから。そんな物語だ。

彼女は僕と同じ学年だ。英文の僕とは異なり、フランス文学を専攻していた。
出会いは文学部の教養授業だった。哲学者デカルトについての講義を教授が延々と話していた。まるでタバコの煙だった。首尾一貫していても、最後は煙になってしまう。目に見えるものはなにも残らない。唯一残るのはにおいだけだ。しかし、それもすぐに消えてしまう。多分、教授のせいではなく、それは哲学のせいであり、またそれが哲学の本質であったのかもしれない。


我思う、故に我あり。



我思うほど自分の存在意義はなくなった。

僕は授業に飽きて、レイモンラディゲの『肉体の悪魔』を読んでいた。

横からスッと手が伸び、僕の本が消えた。

「ちょっと失礼、何読んでるの」

彼女が授業中とは思えないほどの声のヴォリュームで喋ったので、学生だけではなく、教授までもがこちらを見た。

ちょっとどころではない失礼さだった。