山井ゆうすけくん


 山井ゆうすけ君。とても怠惰な人間でした。彼は自身が世界でも二十本指(手と足)に入るほどに不幸な人間であることを強く感じていましたが、自ら不幸から抜け出そうと努力したことは一度も無く、状況が無条件に好転する瞬間を待つばかりでした。 不幸な境遇に生まれた彼はいつも自分の話ばかりしていました。(必要な時期に他者からの肯定が得られなかった経験があり、自ら主張することが必要であると感じていたようです。)


 友人である私が彼から聞いた山井ゆうすけ君の半生を話していきます。


 彼は52歳の時にとても臭い馬小屋で誕生しました。52歳というのは母親の年齢ではなく、彼自身の年齢です。同じく馬小屋で誕生したイエス・キリストにちなみ、救世主と名ずけられました。(山井ゆうすけというのは本名ではなく、彼の戸籍上の名前は「救世主」でした。)

 山井ゆうすけ君の生まれた地域には暗黒シーガルズという弱小野球チームがあり、当時彼らは3シーズン連続120敗と球団存続の危機にありました。そこで球団は救世主として誕生した彼に6年80億円という破格のオファーを提示することを決断しました。(球団は彼を獲得するために他の選手、コーチ、スタッフ一同を全員解雇することになりました。)そんなオファーを断る理由もなく彼は暗黒シーガルズと6年の長期契約を結びました。彼は数字が苦手なので背番号は付けず、代わりに彼の背中に🐝のワッペンが縫い付けられていました。(後に、とても酷いクオリティだったと彼の口から語られています。しかし彼はそれをとっても気に入っていました。) 

 そんな山井ゆうすけ君は幸運なことに既に野球経験者でありました。

 彼の母親は、彼を身篭ってから毎日腹がひどく痛むので病院に行きエコー検査をしてもらいました。胎内の彼は壁当てをしていました。興味を引かれた担当医はエコー検査の映像にスピードガンを当ててみましたた。当時10歳(彼が胎内から出てくるのは42年後である。)の山井ゆうすけ君が投げた球を捉えたスピードガンの数値は時速140kmでした。それを見た母親は彼をプロ野球選手として育て上げることに期待を抱き、地元の建築会社に頼み込み胎内に野球場を作らせました。そして次に、地元の野球少年、そして野球経験者の大人を集め、少年野球チームを作りました。彼らは彼女の胎内に通い、山井ゆうすけ君と共に毎日練習に明け暮れていました。胎内で行われる地区大会でも彼は圧巻のピッチングを披露し、メジャーリーグ5球団のスカウトがエコー検査のモニターを通して彼のピッチングを見に来ました。

 半世紀かけて胎内から出てきて、晴れて野球選手となった山井ゆうすけ君でしたが、プロ野球界は彼や彼の周りの人間が考えるほど甘い世界ではありませんでした。山井ゆうすけ君以外の選手を解雇してしまったチームは試合をする資格がありませんでした。チームは崩壊していました。救世主として獲得された彼がチームの崩壊の直接の原因となってしまいました。経営陣は馬鹿です。シーズン終了後、暗黒シーガルズの経営陣は、全員揃って姿をくらませました。彼の年棒は支払われることはありませんでした。もともと野球場建設で膨大な額の借金を抱えていた母親は、保管していた山井ゆうすけくんの"へその緒"で首を吊って自殺しました。


 野球を辞めた彼は、母親が残した借金を背負いながら生きていかなければなりませんでした。彼は地元の大型ショッピングモールを拠点とし、昼は奇跡を求めて街をふらつき、夜は閉店後のショッピングモールに隠れて商品を消費しながら寝泊まりする生活を続けていました。

 

 彼がそんな生活を1ヶ月ほど続けていた中、彼と私は出会いました。実は私も閉店後のショッピングモールの常連でした。私は非常に裕福な家庭に生まれたので生活に困っている訳では決してありませんでした。趣味です。

 閉店後のモールのなかで物音が聞こえることはしょっちゅうありましたが、いつも私は知らぬふりをしていました。しかしその日は知らぬふりをすることは出来ませんでした。警備員の格好をした男が、ジョン・ケージの『4'33"』を口ずさみながら大きな足音を立てて歩き回っていました。あちらは私の存在に気づいていないようなので、私は急いでGUの試着室に隠れました。そこでひと息ついた瞬間でした。


純粋で鮮明な痛みが私の背中を襲いました。