Ⅱテモテ 2:20〜21

大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。

ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用いられます。

ですから、だれでもこれらのことから離れて

自分自身をきよめるなら、その人は尊いことに用いられる器となります。

すなわち、聖なるものとされ、主人にとって役にたつもの、

あらゆる良い働きに備えられたものとなるのです。

 

 

神様の役に立つ器とは、なんでしょうか。

 

多くの人は、「どんな器か」を気にします。

「自分は金でできているのか、それとも銀でできているのか」

「あの人は、才能があってすごいことができるからきっと金の器に違いない」

そうやって、「より良い材質」の器になろうと頑張ります。

それが「役に立つ器」だと考えるからです。

 

しかし、聖書はそれを

「俗悪な無駄話」(Ⅱテモテ2:16) であり、

「真理から外れてしまった」(Ⅱテモテ2:18)

と語ります。

 

神様から見て「役に立つ器」とはなんでしょうか。

 

それは

①主人が使いたいように使われる器

②きれいに洗ってもらった器

です。

 

たとえ、金の器があったとしても、

主人が使おうとする時に、

「私はそんなことのために使われたくない、そうじゃなくて、こういうことに使われたい」

と言って、わがままを言うなら、たとえ金の器であったとしても、

主人にとっては使い物にならない器です。

 

また、たとえ高価な金の器があったとしても、

主人が美味しい料理をそこに入れようとした時に

内側が汚れていたならば、

そして、主人が「洗ってあげるよ」と言った時に、

「なんであなたにそんなこと指摘されなきゃならないんだ、自分は洗ってもらう必要なんかない、

このままでいいじゃないか」と言うなら、

主人は、その金の器ではなく、

他のきれいな銀の器や、木の器、土の器を使うことでしょう。

 

自分の能力や才能を磨き、伸ばすことも大切かも知れませんが、

使われ方に文句を言ったり、洗われることを拒むならば、

その器は、たとえ金でできていたとしても、

全くもって役に立たない器となってしまいます。

 

「自分のやりたいこと」をするよりも、

「神様の役に立つ」生き方を選ぶ、

神の器となっていきましょう。