彼は言った。「主よ。私は信じます。」
そして彼はイエスを礼拝した。ヨハネ9:38
今週のスペシャルMEBIGのみことばです。
クリスチャンが礼拝をする理由、
それは「イエス様を信じているから」です。
日曜日、礼拝するために集まる理由、
それは「イエス様を信じているから」です。
「他の予定がないから」
「他の用事と被っていないから」
では決してありません。
例え、他の予定や用事と被っていたとしても、
「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを礼拝した。
なのです。
いくつかの視点で考えてみましょう。
1.ちょっとだけなら休んでもいいという理由を考えてみましょう。
さて、1週間なら礼拝を休んでも大丈夫という理由は何でしょうか?
「他に用事があるんだから仕方がない」という理由については、後で触れますが、
用事があるなら1ヵ月でも仕方がないでしょうか?
1年でも仕方がないでしょうか? 10年でも仕方がないでしょうか?
「1年でも10年でも用事があるなら仕方がない」と思われる方は、それでいいと思います。
しかし、「いやー、流石に1年間はまずいでしょ。1ヶ月礼拝を休むのはまずいでしょ」
と思われるなら、
1年間はダメで、1ヶ月なら大丈夫な理由は何ですか?
1ヶ月はダメで、1週間なら大丈夫な理由は何ですか?
1週間休んで大丈夫なら、1ヶ月休んでも大丈夫です。
1ヶ月休んでも大丈夫なら、1年でも10年でも、大丈夫です。
もしかしたら、死ぬ直前に礼拝に来ても大丈夫かも知れません。
「それはダメでしょ」と思われるなら、
なぜダメなのか考えてみるのもいいかも知れません。
イエス様は天の父と3日間引き離されるだけで、
「そんなの耐えられない!」と心臓が破裂するほどでした。
3日後には復活するんだからいいよね、大丈夫。まあ仕方ない。
とはなりませんでした。
今は離れても、後で一緒になるんだから、いいよね。
ともなりませんでした。
それは、時間ではなく、永遠を見ておられたからです。
そして天の父は、「一瞬だってあなたから目を離したくない」
と、永遠の神のいのちを私たちに与えてくださいました。
天の父が一瞬でもあなたから目を離したなら、
ほんの数秒でも、天の父があなたから目を離したなら、
あなたは大丈夫ではありません。もう1秒だって生きていることはできないでしょう。
2.他の人に迷惑がかかってしまうからという理由を考えてみましょう。
あなたが礼拝を選ぶことで、仕事や部活など、
何かで携わっている人たちに迷惑がかかってしまう。という心配がありますね。
分かります。
特に、「周りに迷惑をかけてはならない」という空気の中で生きている私たちは、
この点は、大きな理由の一つになるかと思います。
しかし、少し視点を変えて見てみましょう。
「他の人に迷惑がかかる」ということは、
他の人が代わりにやることになる。ということです。
つまり、言い換えるならば、
代わりがいくらでもいるということです。
多くの場合、仕事、部活、さまざまな活動は、
あなたじゃなくても大丈夫です。いくらでも代わりはいます。
反対に、あなたが礼拝を休んでも、誰にも迷惑はかかりません。
なぜでしょうか。
あなたの代わりに礼拝をしてくれる人なんて、存在しないからです。
あなたの代わりに礼拝できる人なんて、存在しないからです。
「お母さん、代わりに礼拝しておいて」とか、
「〇〇くん、私の代わりに礼拝しておいて」とか、無理なんです。
代わりにできる人がいません。
だから、迷惑もかかりません。
ちなみに、「奉仕があるから」という理由で礼拝に来るなら、
それも少しズレています。
奉仕者なんていくらでも代わりがいます(言い方悪くてすみません)
牧師もそうです。
牧師業なんて、教会の業務なんて、いくらでも代わりがいます。
「私が休むと、迷惑がかかるから」と思うでしょうが、
それは、いくらでも代わりがいるということです。
しかし、あなたが礼拝を捧げることができるのは、あなた自身です。
こればっかりは、他に代わりはいません。
「迷惑がかかる」ということは、
いくらでも代わりがいるということです。
というか、「迷惑をかけた」ということで言うなら、
私たちが一番迷惑をかけたのは、イエス様です。
自分でも担いきれない罪の罰、そして他の人が代わることもできない罪の罰を、
イエス様が代わりに担ってくださったんですよね。
そのイエス様に感謝して、喜んで礼拝するのは、
当然のことですね。
3.そんなこと言ったって、完璧にできるわけないだろ!と思う理由について考えてみましょう。
「人間なんだから、完璧にできるわけないだろ!」と思う方もいると思います。
その通りです。
私たちは完璧にはできません。
しかし、価値があると感じているものに、限りなく完璧を求めるのも、私たちの性質の一つです。
礼拝を休んででも、他の用事を優先する理由は何でしょうか?
これまで積み重ねてきたもの、準備してきたものを、無駄にしたくないからでしょうか?
人間関係にヒビが入るのが、嫌だからでしょうか?
迷惑をかけて、自分の印象に傷がつくのが怖いからでしょうか?
これらは全て、「完璧」を求めているからではないでしょうか?
準備してきたことを最後までやり切ること、
これまで積み上げてきたものを崩さないようにすること、
「完璧」を保ちたいと願っているからではないでしょうか?
「完璧にできるわけないだろ!」
とおっしゃるのであれば、その「用事」も完璧にやらなくても良いのでは?
と思うのですが(はい、煽ってます )
そうです。当然、私たちは人ですから完璧にはできません。
しかし、「価値がある」と思うものには、全力で完璧を目指そうとするのも、
私たち人間です。
ある人は、
どうして競技で1位を目指そうとするのでしょうか?
どうしてテストで100点を取ろうとするのでしょうか?
どうして趣味のものをコンプリートしようとするのでしょうか?
人は、価値あるものには、完璧を求めるようにできているからです
イエス様も、
「天の父が完全なように、完全でありなさい」
と言われました。
その価値が分かる人には、分かる。
「完全にできるわけないだろ」という言葉は、
「私はこのことに価値を感じていませんよ」という意味です。
天の父は「完全な完璧なお方」ですから、
私たちが人生をかけて求め続けるに十分に値するお方です。
これ以上に価値のあるものなんて、他にはありません。
いくつかの視点で考えてみましたが、
ぜひ礼拝する意味、理由について、考えてみる機会となれば幸いです。
彼は言った。
「主よ。私は信じます。」
そして彼はイエスを礼拝した。 ヨハネ9:38