我々の観念はそれが喚び起す行為や他の観念を通じて我々を経験の他の部分へ導いてゆく。この結合と移動が一点から一点へと進行し、どこまでも調和と一致が存する場合、その観念は証明を得ることになる。かくの如く実証された指導が真埋・過程の原型である。我々は我々が言葉においてもっている知識の実際的効果を試さなければならぬ。真理というのはかような実際的効果、紙幣に対する正金の値である。或る観念もしくは理論の真理性はその論理的帰結によってでなく、その実践的帰結によって判定される。知識は解決であるよりもむしろ一層多くの仕事に対するプログラムであり、特に現存の存在が変化され得るような道への指示である。そこで理論は道具となる。実用主義は強張った理論を嫋かにして仕事に着かせる方法である。或る思想の意味を展開しようと思えば、我々はただそれがいかなる行為を作り出すに適しているかを決定しさえすればよい、その行為が我々にとってその思想のもっている唯一の意味である。実用主義は方法として、特殊な結論でなく、却って一定の態度である、第一の事物、原理、範疇、必然性から眼を背けて、最後の事物、結実、帰結、事実へ眼を向けるところの態度である。かくて実用主義の足場は経験である。それは経験が一の全体として自己包括的で他の何物にも凭り懸らないと考える。
