上原雑記夜話

 琳派というと尾形光琳からその名前を取ってるのでしょうね。私個人はその少し前の人、俵屋宗達や本阿弥光悦の方が好きです。
 本阿弥光悦は多彩な人でした。今で言えばデザイナー兼プロデューサー ですね。でも本職は刀研ぎの家です。家康か秀吉かにそれで知行をもらっているはずです。書家としてが一番有名かもしれませんが光悦垣なんて言う垣根のデザインもしています。京都のたしか洛北に光悦寺ってありますね。この光悦垣があります。気になる人は見に行ってください。

  琳派と言うと他に光琳の後の酒井抱一と鈴木其一が有名です。抱一は大名(の弟)です。江戸時代の有名なサロン「八百善」を貸しきって、馴染みになった遊女の身請けの宴会した人で有名ですね。そんな風に江戸時代は奔放で垢抜けた時代でもありましたがやはり逆に庶民の見る目も肥えてきていて作り手にシビアな時代でもありました。
 
 光琳の弟に乾山と言う人がいました。絵師としてはだめだったので転職して焼き物のデザインなどをしました。しかも兄の光琳に「おまえは上方では無理だよ。デザイン帖やるから江戸に下って仕事しろ。」といわれ、光琳が長きに描きだめをしたデザインノートをコピーして江戸に下ります。とほほな境遇でしたがその大味な作風が返って江戸では良かったようです。彼自身も兄のコピーにとどまらず織部なども研究して独自のスタイルを築きました・・・。まあでもやっぱり光琳+織部÷2 って感じです・・・。  Y

上原雑記夜話
 あまり知られていませんが印象派の画家クロード・モネは若い頃宝くじの 1等が当たっています。当時の宝くじです。現在と桁違いでした・・・。
 パリから車で2時間くらいのところにジヴェルニーという小さな村がありますが、モネはそこに大きな屋敷を建てます。そしてそこに巨大な庭園を造営し沢山の書画骨董を集めました。
 
 日本で印象派は人気がありますね。理由を聞くと「観易い」からだそうです。
 日本に洋画を輸入し広めるのに尽力したのは黒田清輝でした。彼が留学した時期、西洋では印象派が最盛期でした。彼にとっての洋画は印象派そのものでした。ただその様に日本人と洋画との出会いが印象派から始まったから馴染めるわけではありません。そもそも印象派自体がジャポニズムだからです。印象派から後期印象派の画家の多くが日本趣味でした。自然に作品にそれが反映されています。
 
 ジャポニズムの中心は琳派 と浮世絵でした。当時の西洋人にその「構図の大胆さ」と「色面の強さ」が衝撃を与えたのでした。色彩は光りあるところでその存在を誇示します。誰もがキャンバスを野外に持ち出して描くようになりました。このような写生という行為も、もしかすると円山四条派の影響かもしれません。
 モネは庭園の池に赤い太鼓橋を架けます。そして柳や睡蓮など東洋的な 題材を繰り返して描きました。彼の絵は光にあふれていますが晩年に近づくと光ばかりで形がぼやけてきますね。それは彼の白内障が悪化したためでした。彼の目には恐らくそう言う風に見えていたのでしょう・・・。画家にとって視力を失うことは致命傷です。失明する運命を知らされた若き日、彼は悲観して自殺未遂をしています。
 オランジェリー美術館というのがルーブル美術館の並びにあります。オランジェリーはオレンジ栽培のためにマリー・アントワネットが作らせた温室でした。だからオランジェリーと言います。オレンジは太陽の色と香りがしますね・・・。その美術館にモネの睡蓮の連作があります。彼の人生とは別に穏やかな作品です。ソファーが置いてありゆっくり鑑賞できるのもさすがだなと思わせます。  Y

上原雑記夜話
 絵に物語性や必要以上の色彩を持たせるのをいけないとしたのはセザンヌです。これをもって近代絵画の始まりとされています。

 ポール・セザンヌは南仏はプロバンス地方のエクスという町の銀行家の一人息子として産まれました。銀行員ではありません。銀行を創立した経営者の息子です。画家を目指してパリに出ます。時代は印象派隆盛でしたが彼は全然だめだめでした・・・。ヌードモデルと秘密裏に結婚して子供が出来たことが親にばれると仕送りが止まりました。親の仕送りを再開させる為に父親の肖像画を昔の仲間でその時既に審査員だった人に頼んで入選させてもらいます。各審査員が裏口入選の枠を2人持っていたからです。しかもその父親の肖像画というのは随分前に描いたものでした。随分馬鹿にしていますね。そんなことをしていれば火に油です。父親の怒は最高潮に達します。
 少年時代からの友人のエミール・ゾラはそれを見て、「ある画家の死」と言う小説を書いてセザンヌに送り付けます。内容は、パリに憧れ画家を目指して田舎から出てきたお金持ちの息子が上手く行かず親にも見限られて最後は自殺すると言う話でした。
 ゾラとセザンヌはそれ以来会わなかったそうです。(当たり前か・・・)極貧の生活を続けていたセザンヌにある日突然手紙が届きます。心労が体に来たのか、父親が急死したのでした。彼は田舎にすぐにとって返し財産を整理してその町の郊外に大きな屋敷 を構えます。 その後、遺産で何不自由なく暮らしたそうです。
 彼は生前ほとんど評価されていません。彼を評価したのはパブロ・ピカソでした。セザンヌは裕福な暮らしの中で作品の他に沢山の絵画論・芸術論を書き残しました。それがピカソやブラックなどの若手のキュビズムの作家の目に止まったのです。セザンヌの論理はキュビズムにとって都合が良いものでした。そこからセザンヌは一気に美術の歴史に踊り出て「近代絵画の父」とまで呼ばれるようになりました。 最後に笑ったのはピカソでしょうか?はたまたセザンヌでしょうか?  Y