ここまで3回に渡って、勝利至上主義批判に対する否定と、未来型のアマチュア野球について提案をしてきた。あくまで理論的な文章を書くことを目指した結果、長々とした読みにくい文章になってしまったので、最後は箇条書きで今回の主張をまとめたいと思う。

 

 

〇主張1

勝利至上主義はその理念自体が悪なのではなく、勝利こそ至高という考えの下に生まれる古典的な過程(体罰・特定選手の酷使等)が問題

 

〇主張2

近年の勝利至上主義批判者の多くは、拡大解釈(勝利を目指す過程には主張1の様な過程が必要だという前提)によって批判をしているため、勝利至上主義批判は先進的な意見ではなく、前提の時点で旧来的な意見である。

 

〇主張3

一般的なスポーツの観点では、体調が万全でない選手を起用したり、特定の選手を酷使したりことは戦力ダウンに繋がる。また、チームスポーツにおいては、主力選手が抜けた穴を少しでも補うことのできるサブメンバーが必要で、これには、適切な育成やチーム編成が必要。

 

〇主張4

体罰は犯罪。許される行為ではない。また、指導や教育に暴力は不要。

 

〇主張5

教育の一環としての学生野球を実現するためには、勝利という1つの目標に向かって努力する過程に学生野球の本質を見出さなければいけない。

 

〇主張6

結果至上主義は、勝利至上主義に比べ「結果」という個人の尺度によって変わりうる曖昧なものが目標となってしまうため、過程の質を上げることが難しく、文字通り結果ばかり求められる環境になる可能性が高い。

 

〇主張7

学生野球において勝利至上主義の理念を正しく用いていくためには、一般的なスポーツの視点と目標を立て、それをどのように実現させるか考える教育的なアプローチが必要。

 

〇主張8

学校の部活動とは別にアマチュア野球として裾野が広がることが、教育の一環としての学生野球と本来の意味の勝利至上主義の達成を近付け、さらには野球人口の減少に歯止めをかけることも期待される。

 

 

~あとがき~

この文章は、私自身、小学1年から高校3年まで野球に向き合ってきた個人的な思いを、論理的に仕上げたものである。主観としては、チームが一丸となって勝利を目指す過程に、チームの成長と、個の成長の原動力があったように感じる。

 

スポーツは、勝者がいれば、敗者もいる非情なものかもしれない。私は、試合に勝って多くの喜びを経験した。その一方、負けたときに学んだことも多かった。それは、勝利という目標と、それに向かう過程がなければ生まれなかった感情だと思う。また、勝利を目指すことは、自分のモチベーションの維持や向上心を生み出すことにも繋がった。

 

勝利以外の目標となると、個々の目標に向かって、それぞれが努力したり、とにかく野球を楽しむということがチーム方針の肝となるだろう。目標へのアプローチがしっかりと行えれば、教育的な観点は満たしており、勝利を目指さないという選択肢もあり得る。しかしそれは、あくまで個人作業の色が強く、集団や組織に揉まれることで育まれる経験や知識を得る機会を失ってしまうことに繋がる。だから、学生野球として、少なくとも部活動としての野球においては、教育の一環として選手・生徒と向き合い、健全な青少年の育成を目指すことが道理だろう。

 

現実問題として、今日古典的な過程による勝利至上主義がまかり通っているチームは、おそらく、指導者の問題が5割、環境の問題が5割といった所ではないか(体感的に)。繰り返すが、野球人口の減少の傾向は近年顕著であり、#1で挙げたような選手層を確保することは強豪チーム以外困難である。特に投手の枚数の問題は、球数制限の議論でも問題になるように、チームによって状況が全く異なり、中堅以下のチームが苦しむ原因となっている。

 

このような状況の中で、やむなく特定選手の酷使や故障選手の強行出場が行われてしまうのだ。この事実は、勝利至上主義を批判する上で格好の標的である。しかし、今回私が示したように、一般的なスポーツに置き換えて考えてみればどうか。体調が万全でない選手を強行出場させることは、間違いなく勝利を遠ざける。これはむしろ、自ら負けを認めているようなものだ。

 

度々、「勝利至上主義を捨てたチーム」などと銘打って、ニュースが流れることがあるが、その指導者の多くが口を揃えて語るのは「私たちは、勝利を目指さない。選手の身体を第一に考え、酷使を避ける」といった内容だ。私は、非常に馬鹿げていると感じる。繰り返すが、勝利を目指すためには本来、故障者を出場させることなど言語道断なのだ。

 

勝利を目指さないのであれば、どんどん特定選手の酷使と故障選手の強行出場を繰り返してほしい。そもそも勝利至上主義は、勝利こそ至高という理念だけであって、その言葉自体にネガティブな意味は含まれていない。酷使や強行出場といった、日本野球の負の遺産を背景に印象操作が行われただけである。

 

もし今後、酷使や強行出場による高校球児の故障のニュースが流れたときには、勝利至上主義とは別問題として捉えて頂きたい。その指導者がどのように考えているのかはその時にならないとわからないが、一般論で考えればそれは勝利至上主義の問題ではなく、そうさせてしまう環境や指導方針に問題があるのだ。

 

と、ここまで散々皮肉を垂れたが、いずれにしても、今後野球関係者はもちろんのこと、スポーツに関わる全ての人が、真の勝利至上主義とは何かを理解し、環境や時代にあった適切な活動が行われることを切に願っている。