中国古典医学では、「気」という概念が重要であるが、中国人の物事の考え方には実証性ということがあり、目で見えるものや耳で聞こえることなど人間の五感で感知できることを基礎にして、五感で感じられないことについてはなるべく基礎としないようにしようという考え方がある。これが、西欧と大きく異なる点である。そのため、「気」を使わずに中国古典医学を説明することが古くから行われてきた。一方、西洋では「電気」とか「磁気」とか、古くは「エーテル」、現代では気の代わりに「場」という言葉を使い、重力場やゲージ場などを基礎として、力という目に見えないものによって物体が変化するとしている。

 そういうことで、実は、中国古典医学の本を見ると、気という言葉をなるべく使わないように書かれている。むしろ、中国人が西洋科学を学び始めた20世紀以降に、気という言葉が多く使われ始めるようになる。たとえば、「気功」というものがあるが、あれは100年前は単に「功」としか言わず、目に見えない力の作用のことなど言わずに、体操とか準備運動とか訓練法としてしか言わなかった。いわゆる導引である。

 たとえば西欧科学では、先ず「空間」があり、そこに「質点」があり、質点と質点の間に「力」が働くとする。これらは、抽象概念であり、目には見えない。

 そういう考え方で中国古典医学を説明するとしたら、人体には「経絡」があり、経絡には「気」が流れていて、異なる経絡に流れる気が互いに「陰陽五行的な作用」を与え合うという言い方になる。もちろん、経絡も気も作用も目には見えない。

 宋や明や清までの中国古典医学と、中華民国や中華人民共和国の中国医学(中医学)は、異なっているのである。正確に言うと、辛亥革命によって西欧文化を導入し、清朝までの古典を廃止したのである。日本の明治維新を手本にして、中国人も同じことをしたのである。さらに文化大革命で、完全に中国の古典を廃止した。その後に、中国の独自の文化を誇示するため、中国の古い書物を解釈して理論化したのが、現在の中医学であり、そうして西洋の影響を受けており、「気」という概念が前面に出てきている。もともとは、中国人は目に見えないものや耳で聞こえないことを基礎にすることはない。この辺の歴史的背景を押さえておかないと、鍼灸や漢方薬などの理論を誤読すると思う。

 また、飛経走気という特殊な鍼法があるが、これは秘伝とされており、修養斎という20世紀最高の鍼灸の達人が門人にのみ伝えている。この方法によると、鍼を打つだけで小周天が起きる。経絡で言えば、任脈と督脈であり、ここの経絡が通す方法がそれなのであるが、この経絡が通常は止まっている人が多く、通じさせることで若返りとか寿命を延ばすという事ができる。いわゆる練丹術や仙術と呼ばれるものである。現代的には、「経絡の中を気が動く」という言い方をするが、古典文献では「通じる」という言い方しかしない。

 気という言葉が気になったので書いてみた。

 最近、謝罪できない日本人が増えている。
 たとえば、こんな感じである。
 ある店で何かを買ったとしよう。パッケージを開けたら、中の製品が壊れていた。そこで店に行って、そのことを伝えて、きちんとした商品に交換してもらうとする。すると、店員は、「交換するためには、買った時のレシートが必要です」と言う。レシートを提示する。すると店員は、「返金を希望する場合は、身分証明書を提示してください。現在、その商品は売り切れなので、三日後に入荷しますので、商品を交換したい場合は、三日後に来てください」。
 で、終わりである。
 つまり、店員は、会社のマニュアルを説明しているだけである。傷物を販売してしまったのですみませんという謝罪の言葉は一切無いし、店員は自分の過失ではないから謝るという発想すら浮かんでこないらしい。
 不味いんじゃないかな、この日本。と思う。

 マンションの廊下が殺風景なので、イケアで安い額を買ってきて、著作権が切れた古い写真をコピーしたものを入れて、何枚かマンションの廊下に掛けた。

 僕は若い頃に、仕事でドイツのケルンの近所の田舎町に滞在したことがあり、その後にフランスのパリに移動しパリにもしばらく滞在したことがあった。どちらの街も、街の風景を市民が作るという心意気があり、趣味の良い街であった。

 どうも日本人はケチな民族のようで、自分の家や自分の庭には手を入れるが、マンションの共用エリアなどとなると、誰も美しくしようとせずに、管理費を払っているからそれを受託した企業がやればいいというような他人任せの発想である。サラリーマンや公務員などは、上司の許可とか会社の許可といった思想で染まっているために、公共の物を自分の手で何かしようとする意欲に欠ける。つまり、それは他人のものだから自分が何かできるものではないと考えている。

 自営業が減ると、全員がそうした公務員的サラリーマン化して、旧ソ連のようなつまらない国になってしまうと思う。現在の日本はそうなりつつあるから、僕としてはささやかな抵抗を試みるわけである。

 よく考えてみて欲しい。住宅街に遊びに行きたくないが、繁華街には行きたいと思うのは、単に食事や買い物といった目的だけではなく、意匠に包まれに行くという意味もある。トルーマン・カポーティの『ティファニーで朝食を』という小説を映画化するに際して、その映画の冒頭でホリー・ゴライトリーが、五番街のティファニーの店の前で、クロワッサンを齧ってコーヒーを飲むシーンは、小説の中の田舎町のスタンドでドーナツとコーヒーという生活からの逸脱を夢見るというシーンを、ブレイク・エドワーズが目で見えるようにしたものである。
 アメリカの田舎で生活してみれば分かるが、少し高級そうなショッピングモールでちょっと高そうな食事ができるので、「ティファニー」という言葉は、あのティファニーではなく、そのような場所がニューヨークにあるだろうと想像するそのティファニーである。名辞ではなく意匠である。

 そうして『ティファニーで朝食を』には名前の無い猫が出てくる。この対比が、冷笑家としてのカポーティの本質であると思う。名前は、自分を支配しようとした者が付与したインデックスに過ぎない。所有概念と命名は深く結びついている。意匠とは、常に人の手から零れ落ちる物であると思う。

 さて、そういうわけで、安い額に著作権が切れた図像のコピーを入れたものは、軽蔑されるようなチープな物であるが、マンションの共用部に置かれると、その共用部が少し良い空間になるという事はどういう事なのだろうかと考えてみれば、大した努力もせずに美しい街を作ることはできると思う。

 先日、ふと考えた、漢文の対句表現によるメタファーは数学の圏論と同じではないのだろうかと。
 修養斎の陰陽説の説明と圏論の定義があまりにも似ているので、そうした共通性は漢詩からくるのではないかと妄想した。

 対句表現は、いわゆる構造の類似性から成り立つ表現であり、たとえば「山が高ければ、谷は深い」という表現には大地の造山運動を含んでおり、造山活動がさかんな地域(日本で言えば谷川岳など、外国で言えばエベレストなど)では山は急峻で谷は切り立っているが、大陸の平原では山は低いし谷もなだらかであるという情景をも含んだ表現である。この「山が高ければ、谷は深い」は造山運動の激しさを示唆した表現であると思う。
 圏論では、メタレベルでの関係性を検討するための手法であり、山とか谷といった集合から、高い低いといった集合への関係性を示しているが、そのメタレベルとしては造山運動があり、その造山運動の激しい地域か穏やかな地域かという関係性もその上位にある。そして圏論では、それから抽象して、造山運動と人間性との対比として考えると、人も楽観論を唱える人ほど状況が変わると悲観論に落ち込むという、そんなところまでも表現できるものである。

 数学で圏論はここ100年ほどの考え方であるが、中国の漢詩の対句は3000年ほど昔からの考え方である。
 こんなことを考えると、日本や中国は数学が得意な人が出やすい文化環境であると思う。

 昨日の体操教室では、いままでとはちょっと毛色を変えて、武術について話した。

 

 武術と言うと、相手を殺傷する技術であると妄想する人が多い。これは間違いである。武術は、自分の身を守る技術であって、その手段は問わないというものである。手段は問わないと言うと、毒物を使うとか他人に命令して殺傷するといった方法を思いつく人がいるかもしれない。しかし、それは大変に一面的な認識であり、人間というものは物体ではないのだから、こちらに衝突しようとやってきたとしても、気が変われば衝突せずに帰って行くのである。自分を殺しに来た人間であっても、その場で友人となることができれば、別に暴力を使う必要はないし、武術の目的である自分の身を守るということは果たされる。これが武術である。

 

 人間は、自分が相手を怖がっていれば相手も自分を怖がるようになり、心理的な共感と言うか共鳴を起こす。これを避けるために、猫をかぶって近づいてきた敵が突然殺意を現したときに即座に押さえつける技能を持っていれば、恐れたり怖がる必要はないので、おっとりした呑気な雰囲気となり、より友人関係が結びやすくなる。このために、高速で動く技能やノウハウがある。それを狭い意味での武術と呼んでいる。

 

 誰でもそんなに早く動くことができるのか?とお思いになられるかもしれない。これは是である。これはこれまでにこの体操教室で脳や中枢神経系の仕組みを説明したが、その際にベンジャミン・リベットの話をした。40年ほど前に、脳の活動電位を調べていたベンジャミン・リベットは、動作が意識されるよりも早く筋肉への収縮信号が発せられていることを発見した。この間、約0.5秒である。0.5秒あれば誰だって1メートル~2メートル移動することができる。現代においては、自己とか意識とか自分というものが行為の発端として位置づけられている。しかし、そうではないと解明されてきており、誰でも早く動くことはできる。自分の意識を媒介としない動作であるからである。

 

 この訓練のノウハウが、狭い意味での武術と呼ばれる。いわゆる武術で言う「後の先」である。それで遅れないか?と思う人がいるかもしれない。斬りかかってくる相手と同じ脳の使い方をすれば遅れる。そうではない脳の使い方をすれば間に合うのである。これがリベットが解明したことである。つまり、武術の練習でなんでこんな変なことを練習するのかと言えば、脳の使い方を合理的なものにする訓練だからである。

 

 それを、殺伐とした世界における「技」として使わなくても、日常生活に生かそうということがこの体操教室の目的である。転倒しても、身体が地面に落下する間に中枢神経系が高速に働いて対処できれば、怪我は軽くて済む。何かが飛来してきても、何とか避けることができる。こうしたことは、脳が信じないことには動作できないため、ニュートンの運動方程式や微分方程式などを使って体操教室で説明し、可能であることを脳に理解していただいた。論理というものは、脳を説得するための手段である。現実や事実を見せても人間の脳は納得しないので、論理が必要な理由である。前頭葉が大きすぎて、妄想が出やすいのが人間の欠点である。これも昨年の体操教室でラマチャンドランの実験などで説明したことである。いわゆる「イリュージョン(錯覚)」である。