先日、ふと考えた、漢文の対句表現によるメタファーは数学の圏論と同じではないのだろうかと。
 修養斎の陰陽説の説明と圏論の定義があまりにも似ているので、そうした共通性は漢詩からくるのではないかと妄想した。

 対句表現は、いわゆる構造の類似性から成り立つ表現であり、たとえば「山が高ければ、谷は深い」という表現には大地の造山運動を含んでおり、造山活動がさかんな地域(日本で言えば谷川岳など、外国で言えばエベレストなど)では山は急峻で谷は切り立っているが、大陸の平原では山は低いし谷もなだらかであるという情景をも含んだ表現である。この「山が高ければ、谷は深い」は造山運動の激しさを示唆した表現であると思う。
 圏論では、メタレベルでの関係性を検討するための手法であり、山とか谷といった集合から、高い低いといった集合への関係性を示しているが、そのメタレベルとしては造山運動があり、その造山運動の激しい地域か穏やかな地域かという関係性もその上位にある。そして圏論では、それから抽象して、造山運動と人間性との対比として考えると、人も楽観論を唱える人ほど状況が変わると悲観論に落ち込むという、そんなところまでも表現できるものである。

 数学で圏論はここ100年ほどの考え方であるが、中国の漢詩の対句は3000年ほど昔からの考え方である。
 こんなことを考えると、日本や中国は数学が得意な人が出やすい文化環境であると思う。