明治通りを検索したら環状五号線であると出ていた。環七、環八は有名であるし、山手通りは環六だそうである。ということは、環一、環二、環三、環四もあるのだろうかと思い調べてみると、内堀通りが環一だそうである。環二は、戦後の進駐軍がいた時代は工事が凍結され、バブル期に工事が再開されて現在ほぼ開通したそうである。環三と環四は、用地買収も進んでおらず建設の目途が立っていなし、ほぼ建設が放棄されているらしい。
 これらの東京の環状道路は、関東大震災の復興の都市計画として立案されたそうである。いずれも、幅員100メートルの道路を建設する予定だったそうである。しかし、戦後復興の際に建設をしようとしたところ、米国政府から「そんなものを作られては、戦勝国よりも立派な都市になってしまうので、中止せよ」とされたそうである。そのため、用地確保が行われず、1964年のオリンピックの際の道路整備は、立体交差の首都高という旧ソ連の映画監督タルコフスキーが「未来的」と感じる奇妙なものが作られた。
 それでもバブル期に、1923年の関東大震災の復興計画が見直されて、地味に建設が行われ続けている。

 江戸に町が建設されて以来、この地域ではしばしば地震が起き、また住宅が密集する事から大規模な火災も起きていた。石などの不燃材料を多用すると、地震の際に倒壊して死者が出る。倒壊のリスクの少ない木造の軽量建築にすると、火災の際に容易に燃え広がってしまうということで、江戸幕府は頭を抱えていた。結果、住居については軽量な木造建築とし、重要なものを保管するために土蔵を作ることをさせた。そして、火災が延焼しないように、広小路を作り、高さ数メートルの火除堤と火除地を作らせた。また町火消を作った。町火消は、破壊消火と呼ばれることを行った。破壊消火とは、延焼して燃えそうなものを、破壊して撤去して延焼を食い止めるという方法である。このため、江戸の住居は容易に取り壊せるようなものであった。
 また、火除堤に何も無いのは殺風景だとして、ソメイヨシノを植林した。土手が花見の場所となったのはそういう理由による。さらに、花見の時だけ、屋外での飲酒を認め、現在にも続く花見の習慣(桜並木に茣蓙を敷き飲酒する)が作られたのもこの頃である。
 こうして江戸時代には、火災に耐える頑丈な家を作れば地震で倒壊して危険であるし、倒壊しないように軽量な家を作れば火災で延焼しやすくなるということで、なんとか良い建築方法は無いかと検討してきた。
 明治になって、文明開化と称して欧米から様々な建築方式が導入された。1891年の濃尾地震で、洋式の建築のほとんど全てが倒壊して、明治政府は西欧礼賛の方式に疑問を持った。そこで、西欧でも当時最先端であった鉄骨構造やコンクリート構造の建物などが実験的に建てられていった。そして来たのが関東大震災である。残存した建築物は、鉄筋コンクリート構造であったことから、日本の建築と言えばコンクリートということがこの時期に定まった。
 日本人の多くは、建築方式や都市計画は戦後に策定されたと誤解しているが、実は、戦前の昭和初年には関東大震災の復興計画として、現在もなお建設途上の計画が立案された。
 こんなに時間がかかっているのは、馬鹿なあの戦争をしたので、東京の都市の建設が、50年遅れたためである。
 昭和10年(1935年)頃の『資生堂グラフ』というファッション誌には、東京都内で生活している女性が、休日には自動車で箱根に行ってテニスなどするのが、活動的なこれからの女性の姿であると紹介されている。このレベルに戻ったのが1985年頃である。

 さらに、それから40年経って、「東京」という諸外国には無い様式の生活空間となってきている。今から約600年前に太田道灌が都市の建設を計画し、その後に徳川家康が引き継ぎ、天海僧正が都市計画を行って建設をしたのが江戸という街である。天海はおそらく中国人であり、明が倒れて清に変わった際に多数の中国人が日本に亡命して来て、江戸の建設を行ったようである。ちなみに、現在、東京は世界最大の都市である。