体操の教科書を書くために、先日、人形を買ったので、人形にポーズを取らせて足の動きを撮影しようと思う。
 昨年の体操教室では、腕の動きを詳しくやった。このついでに、腕もポーズを取らせて、描き直そうと考えている。昨年のテキストでは、概念的に「形」と「法」と「路」などを明確に定義していなかったが、今年はそうした言葉について明確な定義をしておこうと思う。これは、昨年暮れから今年春にかけて、数学をかなり勉強して数学の概念を使えるようになったためであり、数学の構造を体操の中にも導入できたからである。デカルトが『方法序説』の中で、哲学を考える上で役に立ったものは数学だけであったと書いていた。学問でその基礎を考える時、その通りであると思う。
 
 そうして腕の動作を、分解すると、手鏡とか、袂を払う動作など、伝統的な動作を組み合わせた動作であることが、よく分かった。
 動作を組み合わせた場合、動きが途切れているとか繋がっているという概念はなかなか分かり難い概念であったが、今回、「形」と「法」と「路」を明確に定義して、その通りに行うと「気」というものが生じるので、その「気」によって動作が途切れているか繋がっているか判定できるので、操作的な概念という事で定義できそうである。

 小山裕史先生が、「定義無きところに科学無し」とおっしゃっていたので、目下、その通りに考えている所である。

 腕の体操で気が動くと、即座に効果が表れる。たとえば、目がよく見えるようになる。目の老化には2つあり、眼球というセンサー部が劣化するケースと、眼球からの映像信号を処理する脳の視覚野の劣化するケースである。脳の劣化の場合は、一時的な血流阻害とか酸素供給の不十分さから、視覚情報がうまく処理できない場合には、数分間の体操で、物がハッキリとくっきりと見えるようになる。